先日、ある納期が短い仕事に取り組みました。
内容的には興味のあるものだったのですが、「●●時までに終わらせないと」と焦りながらやってるうちに、自分の身体がこわばっていき、終わってみると、かなり疲れていました。
最近、ヨガや瞑想をやる時間が長くなった分、自分を省みる時間も増えているのですが、考えてみれば会社に行っていた時も、「あー、あれもこれも、終わってない」「今日もまた、帰り時間がこんなに遅くなっちゃったよ」とイライラして、憂鬱になり、身体をこわばらせていたな、と思います。
それで、仕事を終わって帰ってきた時は、くたくたになっている。
前職は、けっして詰まらない仕事ではなかった。というか、(方向性の違いで会社を辞めはしたけれど)内容的に非常に面白いものでした。それにも関わらず、仕事をしていると身体がこわばり、すごく疲れてしまうことが多くありました。
「~ねばならない」という意識から離れる
僕はもともと、「~ねばならない」「~すべき」という志向が強い人間です。「常に全体のことを考えて動くべき」
「豊かな先進国に生まれた恵まれた立場の人間だから、社会のことを考えるべき」
子どもの時、よくそんなことを考えて、ちゃらんぽらん(に見える)他人を見ては、イライラしていました。
多分、それで、自分に常に緊張を強いていたのだと思います。
そのせいか、大学生くらいの時、強度の緊張型頭痛を患うようになりました。
ほぼ毎日、少し疲れると脳が万力で締め付けられるように痛くなり、まともに物が考えられなくなる。
この緊張型頭痛により、仕事でも、他人より早くバテてしまい、よく怒られました。
(「仕事はまじめにやるべき」と考えていた分、この自分の体たらくぶりが辛かった)
その後、過労で鬱になりかけたのと、ヨガを始めたこともあって、「~ねばならない」という志向癖はだいぶ弱まり「がんばり過ぎない」ことを意識するようになりました。
それでも、仕事では、やはり身体がこわばることが続きました。
改めて考えると、それは、「力を抜いたら、この仕事をこなせないんじゃないか」という不安だったり、「リラックスすることは、手を抜くこと」だという意識があったからではないかと思います。
リラックスは、物事を深く感じる準備
そんなことを考えていた時、ふと、先日、マインドフルネスの瞑想会で、「苦しみに向き合う前に、まずリラックスして、世界の美しさに感受性を開くことが大切」と聞いたことを思い出しました。リラックスとは、手を抜くことではなく、自分の中の自然な感情を引き出すための、準備だということです。
マインドフルネス瞑想を広めたベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンは、「私の修行は、”修行しないこと”を修行することであり、”何も得ない”ということを得ることである」
(My practice is the practice of non-practice, the attainment of non- attainment.)というブッダの言葉を引用しています。
つまり、その極意は、「がんばらないことをがんばる」ことにあるといったらいいのか。
そんなことを考えているうちに、「仕事も、やはりリラックスして向き合いたい」と思いました。
難しい仕事に向き合ったり、困難な状況に置かれた時に、力むのではなく、一度、深呼吸して身体をゆるめ、少し微笑んでみる。
そして、子どもが砂場で、夢中になってお城をつくるみたいに、「こうしてみたいな」「こうなったらいいな」という自然な好奇心で、仕事と向き合えたら、と思います。
もちろん、世の中には、他人の悲惨な状況に向き合わなければならない職業のように、「楽しむ」ことが不謹慎であるような仕事も存在します。
だけれども、その時も、まずリラックスして、苦しんでいる人に対する慈しみの感情を、心のうちから自然に呼び起こせたら、と思います。
まあ、そんなことを言いながら、明日もヒイヒイ言いながら仕事していると思いますが、
もし、とても困難な状況や、難しい仕事に直面しながら、なおリラックスすることができれば、本当の意味で、生きていることを天国のようなものに変えられるのではないか。
そんなことを思いました。
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