前にフィリピンで会った子どもたち。昼間は無邪気に遊んでいても、彼らが夜の市場で働いていることを知った時は、ショックでした |
前回の続きです。前回記事はこちら。
1、幸福とは客観的条件と主観的な期待との相関関係
第一に、「幸福は、客観的条件と、主観的な期待との相関関係で決まる」という考え方です。
特に心理学者は、近年、人間の幸福度を測るために年収別などクラス分けした人間に
「今の自分に満足しているか」
「人生を送ることに価値を見出しているか」
「将来について楽観的か」
といった項目などを熱心にアンケート調査を行っています。
ここからは、「結婚している人間の方が伴侶のいない人より幸せ」、「ある程度、収入が高い人の方が幸せ」といった傾向が見えてくるのですが、これを深めて行って分かるのは、「幸福とは、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる」ということです。
この例として、著者は、「あなたが牛にひかせる荷車が欲しいと思っていて、それが手に入ったとしたら、満足が得られるだろう。だが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分は惨めと感じる」と述べています。
確かに、移動手段が馬などしかなかった時代に比べ、自動車を使える現代は、快適さという点では比べ物にならないと思います。でも、例えば昔の農民が、汗水流して溜めたお金でようやく牛馬を買い、大切に世話をしているのと、お金持ちが、金に明かせてポルシェやフェラーリをボンボン買っているのでは、幸福度はぜんぜん違うのではないか、と思います。
また、同じようなことで、貧乏でものすごく苦しい思いをしている人がある程度年収が上がったとなると、幸福度はとても高まると思いますが、すでにかなりお金が在る人が、それ以上年収が上がったとしても、それほど幸福度は高まらないと思います。
幸せは、具体的に何を持っているかでは決まらない。
はたから見ると、どんなに満たされていても、「まだ足りない」と思っている限り、いつまでたっても満たされない。
逆に、あまり文明が発展していなくても、ある程度ちゃんと生活できていれば、それで満足できるようになるとも言えます。(仏教でいうところの、「足るを知る」ですね)
2、人間の幸・不幸は化学的なメカニズムで決まる
第二に、化学的な観点からのアプローチ。生物学者によると、まず、人間の精神や感情は、セロトニンやドーパミンといった化学物質から成り立つ、複雑なシステムによって決まっています。
ドーパミンがたくさん出ていれば気持ちがいいし、セロトニンが足りていないと不安感が募る。
こうした化学物質の分泌のメカニズムは、遺伝子が子孫を残すために生物に組み込まれたものです。
人間は、幸福を求めますが、それは基本的には「結婚相手を見つける」「自分の生活を保障されるようにする」など、子孫を残し、人間という種が繁栄することにつながっています。
ですが、あまり幸福になってしまうと、人間は、種の保存のための努力をやめてしまいます。
有名な生物実験で、ネズミに、脳のドーパミンを放出するところに電極を付け、スイッチを押すたびに電流が流れるようにしてやると、ネズミは快楽のあまり、飢え死にするまでスイッチを押し続けるそうです
こうなると困るので、遺伝子のメカニズムは、(前述の実験のような特殊な状況はさておき、基本的に)人間を常に一定以上、幸福にも不幸にも成り過ぎないようにコントロールしているそうです。
そのため、どんな幸福も、それが過ぎれば冷めてくる、ということになり、常に幸福な状態には人間はなれないことになります。
3、「人生の意義」こそ、真の幸せ?
ハラリは、幸福に対するもう第三のアプローチとして、「人生の意義」という要素を挙げます。
たしか、V・フランクルかニーチェに、「人間はどんなに苦しい状況でも、そこに意味を見出していれば、耐えることができる」という言葉があったと思いますが、ハラリは、この一例として、子育てを挙げます。
子育ては、赤ちゃんのうんちを処理したりと、はたから見て、けっして快適な行為ではありません。(まあ、僕自身が直接、赤ちゃんの世話をしたことはないのですが・・・)
しかし、多くの人間は、赤ちゃんの世話にやりがいを見出すし、幸せを感じるということです。
また、有名なマズローの「欲望の5段階」説によると、人間の欲望は、まず自己の安全・安心など、生物的な欲求を満たすところから、徐々に名誉などの社会的な欲求の方に移行していく、となっていたと思います。
しかし、「夢のために貧乏生活を耐える」といったことをやってしまうのが、人間だとも言えます。
ただ、これについてハラリは、「自己欺瞞なしには得られないものだ」としています。
というのは、科学的な視点から見ると、この宇宙において、人類が存在することに別に意味はないからです。
ハラリは、「人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう」と述べています。
「この世界は神によって創造された」といった一神教の信仰を持つ人ならば、この世界の存在自体に何かしらの意味を見出すと思います。
でも、一神教の信仰を究極的に言うと、この世界自体は意味なく存在している。その中で、いくらがんばっても仕方ないじゃんか、ということになります。
まあ、この点については、個人的に、多少反論があります。
僕の好きなフランスのユダヤ人哲学者、エマニュエル・レヴィナスは、
「隣人に向かい合うことを通して、私たちは人生の意味を手に入れることができる」といった意味のことを述べています。(こんな単純な言い回しは決してしない人ですが。苦笑)
レヴィナスは、ナチスのホロコーストを経験し、親戚の多くを強制収容所で亡くしているのですが、ナチスの「人類の進歩」「優良人種と劣等人種」という考え方に対抗し、「今、ここで向き合っている人を大切にすること」の重要性を考え続けていたようです。
人類という大きなくくりで考えなくても、近くにいる人を大切にすること、それで結構幸せになれるものでは、と言う気がしますし、隣人を大切にすることを通して、より広く社会のことを考える道もあるのでは、と思います。
4、仏教的な「幸・不幸に執着する心をなくす」
最後に、ハラリは仏教的なアプローチ、つまり「そもそも幸せに執着しようとする心をなくす」ことによって、次元を深めた心の安定を目指すアプローチについて紹介し、「そもそも、期待が満たされるとか、心地よい感覚が味わえるかどうかがではなく、重要なのは、自分の真の姿を見抜くことができるかどうかではないか」と述べています。
このレベルまでくると、日常的に味わう幸福感を超えた、より深い意味での幸福へのアプローチになってくるのでは、と思います。
僕がこのブログで何度か言及した、マインドフルネス瞑想の始祖であるベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンは、「今ここに生きることができるようになることによって、世界の存在する不思議に心が開かれること、(センス・オブ・ワンダーを感じられるようになること)こそが幸せだ」と述べています。
この考えは、個人的にも今後、より深めて生きたいと思っています。
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ここまでハラリの考えをまとめる作業をしてみて、一つ僕が思ったのは、どういう条件であれ、「自分が生きていることを肯定する」、(V・フランクル風に言うと、「それでも人生にイエスと言う」)という態度を取ることができるようになることが、本当の意味での幸福なのではないかと感じました。何が幸せか、という問題はここで語り尽くせるものではないので、また別の、さまざまな角度で考えていくことになると思います。
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