今朝、神奈川は、朝からどんより曇っていた。そのせいか、どこか気だるい気持ちのまま午前を過ごした。
そんな気分ががらっと変わったのは、お昼の後、渋谷に向かった時のことだ。
20分ほど地下鉄に乗り、改札を抜けて地上に出ると、「うわっ」と感嘆の声を漏らしそうになった。
いつの間にか晴れわたった空から、太陽が差し込み、街のビルや人々、街路樹をキラキラと照らし出している。
いつもはゴミゴミした渋谷の空気の一粒ひとつぶに、輝くエネルギーが宿っているようだった。
「世界はこんなに美しいんだな」と、ふと感動がこみ上げてきた。
「ただ生きているだけ」じゃダメなの?
10年ほど前、大学生のころに読んだ『NHKにようこそ!』(滝本竜彦✕大岩ケンジ作、角川書店)というマンガで、印象的だったシーンがある。『NHKにようこそ!』は、大学を中退した引きこもりの主人公が巻き起こすドタバタコメディーだ。
(ここでの「NHK」とは、「日本”ひきこもり”協会」の略)
主人公たちの将来に対する絶望、引きこもりの子どもを抱えた親の苦悩が深く描かれ、改めて読み返すと、「コメディータッチで書いてくれなかったら、辛すぎてとても読めなかっただろうな」というような内容だ。
5巻の冒頭、主人公が違法ドラッグに走り、あげくの果てに温泉宿で狂ったように叫び、卒倒する場面が出てくる。
彼が担ぎ込まれた病院に駆けつけた母親は、泣きながら叫ぶ。
「バカ!!何でこんなになるまで黙ってたの!!」
「あんたが生きてればそれだけでいいんだから!!生きてるだけでいいんだから!!」
その母親を、主人公は虚無的な表情で見つめる。
この、虚ろな顔が、深く心に残った。
周りの人と比べて感じる焦り
先日、「仕事で疲れているのに、それでも(体を壊すほどに)頑張ってしまうのはなぜか」という話を書いた。やりたい仕事をやっているのに、自分がすり減っている気がする?:マインドフルネス瞑想会の法話から
ここには複数の理由があると思う。
そのうちの一つの原因として考えられるのは「周りの人がこんなに仕事ができるのに、自分は全然できていない」という焦りや劣等感だ。
「自分はダメダメだ。こんなことじゃマズイ」。
この危機感は、怠け気分にひたっている時のスパイスにもなるので、いちがいに悪いものではない。
ただ、別の側面から見ると、この感覚の奥底には、「役に立つ人間でないと価値がない」という価値観が潜んでいるのではないか。
そして、その価値観は時に人を追い詰めることがあると思う。
「役に立つ人間でないと生きる価値がない」
「役に立つ人間でないと価値がない」。これは、企業などの組織の観点から見れば、ある意味、当たり前だ。
もし組織が仕事をしない人間ばかりで構成されていたら、その組織は存続できないだろう。
ただ、問題は、これが、会社勤めなどより前にあるべき自己肯定感、つまり「他人にどう評価されようと、どんなに惨めだろうと、自分が生きているのは本質的に良いことだ」という感覚を毀損しているのではないか、ということだ。
「他人に評価されない自分は、生きている価値がない」。
鬱や自殺などに追い詰められてしまう人の中には、こうした感覚が根強いのではないかと思う。
あるいは、2016年7月、神奈川県で、知的障害者の施設を元職員の男が侵入し、19人の方を殺害した事件については、覚えている人も多いのではないかと思う。
「障害者は社会の役立たずで、生きる資格がない」。
こうした犯人の考えは、「自分は生きる価値がない人間だ」というコンプレックスの裏返しだったのではないか、という気もする。
「すべての人に生きる価値がある」?
「すべての人に生きる価値がある」「人間は生きているだけでいい」
こうした言葉を心の底から言えるのは、キリスト教のような絶対的な存在への信仰があるか、病気など外的な要因によって生命の危機にさらされた経験のある人ではないかと思う。
「神様が『すべての人の命に価値がある』と言っている。私は神様を信じているので、あなたの命にも価値があると信じる」
「自分が苦しい時に、心の底から『生きたい』というエネルギーが湧いてきた。その感覚を自分は信じる」
というように。
ただ、日本には、「すべての命に価値がある」と信じさせてくれるような文化土壌が希薄な気がする。
(「責任とって切腹しろ」と、積極的に自殺を推奨する歴史的背景はあるかもしれないが)
さらに、現代社会では、人間以外の生命と触れ合う機会は少なく、「いのち」を実感しづらいと思う。
生命の危機に関しても、「事業が破綻する」「就職ができず生活費がまかなえない」といったものが多い。
これらは「お前がダメなのは、お前の自己責任だ」と言われがちだ。
(病気と異なり、事業や就職がうまく行かないのは、たしかに個人の努力も一部関わるので、「自己責任」という意識を逃れられない)
こうした状況の中、『NHKにようこそ!』の主人公のように、「あなたは生きてさえいればいい」と他者から言われても、それを信じるのは難しい。
(実際、このマンガでは、この後も主人公の狂騒が続く)
強さや弱さは相対的なものにしか過ぎない
僕自身も、なかなか「命そのものの価値」を信じられない人間だ。なので、自分が「社会の役立たず」になることへの恐怖は、常に心の片隅にある。
だが、信じられないなりに、こうした事態をどう捉えればいいかを考えてみた。
その中で思い出したのは、内田樹さんの著書『困難な成熟』だ。
(『困難な成熟』については「「目に映るすべてのことはメッセージ」BY ユーミン&内田樹」を参照ください)
現代社会において、より役に立つ存在は「強者」、役立たずは「弱者」と言い換えることができると思う。
この「強さ」「弱さ」について、内田さんは以下のように述べている。
「強い個体、能力の高い個体だけが生き残り、弱い個体、非力で無能な個体は淘汰され、打ち捨てられ、場合によっては「喰われる」という「弱肉強食ルール」がもし社会集団に適用されたら、その集団は「集団として」は存続できません」
「なぜなら、強弱というのは相対的な概念だからです。「絶対的に強いもの」も「絶対的に弱いもの」も存在しません」
「比較の項として「弱いもの」がいることが誰かが「強い」ということの唯一の条件です」
「だから、「強者だけで形成された集団」というものは原理的に存在しません」
「「強者だけの集団の中の相対的に一番強くないもの」がそこでは弱者とされて「喰われる」からです」。
「弱いものは強いものに喰われて当然であるというルールでやっていれば、集団構成員はどんどん減っていって、最後はゼロになる・・・・・」
(『困難な成熟』P50−51)
今は活躍していても、後で「お荷物」になる可能性も
世の中で活躍している(ように見える)人がいるのは、活躍していない「その他大勢」がいるからだ。で、活躍している人も、ひとたび何かでつまづけば、「活躍していないその他大勢」「お荷物」になることもあると思う。
例えば、今は体も頑丈でバリバリ仕事をしているが、ある日、突然、失明したとする。
現代は、パソコンの自動読み上げ機がある。それでも、目が見えなければ、目が見える人と同様に仕事をするのは難しいだろう。
(僕自身、視力が急激に低下した小学生の時以来、失明に対する恐怖が消えない)
こう考えると、例えば障害を負った人たちというのは、
「自分に先んじて、困難を経験をしてくださっている方々」であり、
ある意味、「人生の先達」
に当たる存在かもしれない、という気がしてくる。
強さと弱さの複雑な関係
「勉強のできない人間のほうが、勉強できる人間よりも、良い教師になり得る」昔、中学時代に教わったある先生の言葉が、今も心に残っている。
(彼は、「日常のそばにある不思議:石牟礼道子さんの『椿の海の記』」で紹介した数学教師の方です)
「はじめから勉強ができる子は、”できない子がなぜ分からないか”を理解するのが難しいから」
彼は、そのように説明した。
ある側面での弱さは、強さに変わりうる可能性も秘めている。
「弱さ」「強さ」といった通念を深く見つめると、創造的なものが見えてくる気がする。
こうした理屈ですぐに自己肯定感を抱いたり、恐怖心を和らげたりできるようになるわけではないが、今後もこのテーマを掘り下げてみたいと思う。
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