主体的に生きること:ネイティブアメリカンの教えから

2018年3月31日土曜日

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一昨日と昨日の2晩続けて、帰り道に職場のある浅草から神田まで一時間ほど歩いた。「体を熱くしたい」。そんな衝動にまかせて、ひたすら早歩きした。

花粉症のせいか、ここ数日、毛穴に蓋をされて不純物が体内に沈殿しているような息苦しい感じがずっとあった。

朝も、喉の痛みと頭の重さで、寝足りないまま目が覚めてしまうことがしばしばだった。

多分それで、「全身の血流を強めて、余計なものを排出したい」と身体が感じていたのだろう。

浅草から神田への道すがら、夜の明かりに照らされて、「全身酸素カプセル」「1人カラオケ専門店」といった面白そうな店を見かけた。

道の脇に並んだテーブルに酒やツマミを並べ、楽しそうに飲んでいるスーツ姿の人を見かけた。

感じの良いバーで、夜景を見ながら楽しそうに話すカップルもいた。

そんな風景を見ているうちに、徐々に意識が仕事からも離れていく。心臓の鼓動も早くなっていき、体の内側から湧き上がるような熱量を感じた。

神田に着くころには、体に心地よい疲れを感じるようになり、帰りの電車内では居眠りをした。

ネイティブ・アメリカンの智慧を聴く

今週の火曜日(3月27日)の夜、神田にあるコミュニティースペース「c−lounge」で、環境教育などを行う「マザーアース・エデュケーション」を主催する松木正さんの講演会に参加した。

松木さんは、30年近くネイティブ・アメリカンのコミュニティーで学んだ知見を生かして、現在は企業に対しては、特にリーダーシップやイノベーションに関する研修に取り組んでいる。

さらに、学級崩壊した小中学校のクラスといったハードな現場において、子どもたちに「人と人が濃密に関わり合う」ことを目指したワークショップを開催しているという。

講演会の内容は、彼がネイティブアメリカンに関わるようになった経緯と、そこで得られた知見をどのように現代に生かせるか、といったものだった。

講演の半分くらいは、このインタビュー記事の内容とオーバーラップする。

 今流行りのマインドフルネスに物申す。29年間ネイティブアメリカンと共に生きてきたぼくが伝えたい、本当の「あるがままに生きる」とは?

ただ、人の話というのは、語られた言葉がすべてではない。

声のトーン、語っているときの表情、しぐさ。それら言語化がうまくできない微細な変化も、相手に伝えている。さらに、松木さんは京都出身のためか、軽妙な関西弁で「ボケ」を挟みながら話をする。

そんな点も含めて、感じたことが多くあったので、2〜3回に分けてブログで書きたいと思う。

(また、講演だけでうまく理解できなかった点も多くあるので、彼の著書『あるがままの自分を生きていくーインディアンの教え』(大和書房、2013)も引用して、補足したい。

「まだ言葉にならない感覚」を自覚する

「自分がいちばん関心があるのは、「人が変わる」ということだ」。

講演会の冒頭、松木さんはこのように述べた。

もっとも、「人が変わる」と言っても、いろんな変わり方がある。松木さんの場合、人がどのような方向に変わることを支援しているのだろうか。

それは「あるがままの自分を大切にする」ことだ。

この「あるがままの自分」とは、「主体的に生きる」とも言い換えられる。

そして、主体的な生き方とは、「まわりで起こっている現象や見たり聴いたりしたことが、自分にとってどういう意味を持ち、何が本当の問題なのかを発見できる力を持つこと」だという。
(『あるがままの自分を生きていく』P102~103。下線は筆者)


松木さんがこうした主体性の在り方に注目するのは、それが人間のより良い生き方だと考えているとともに、時代的な背景もある。

「高度経済成長期からバブルがはじけるまでは、学校だけでなく社会全体がその基準で良かったのだと思う。ものを作れば売れた右肩上がりの時代、目標達成に向かって積極的であることや、周囲の期待に十分応えられる行動力のある人材が必要だったのだ」

「しかし、ここ20年で社会は大きく変わった。経済は停滞し、伸びるきざしはなかなか見えない。『オレはこうやってきたから』という先輩社員の経験談が正しいのかも分からない。何を信じたらいいかが見えにくい時代になっている」
(『あるがままの自分を生きていく』P101~102)

答えの見えない時代に、自分なりに答えを見つけ出せる力。

それが主体的な生き方ということだが、そうした力を持つためには、何が必要なのだろうか。

これに関して、松木さんは、ネイティブ・アメリカンの長老に聴いた、以下のような言葉を引用している。

「この地上で生きるものにとって、もっとも大切なのはFaith(信頼)だ」と語った。そして、信頼はaccept(受け容れる)ことから生まれる」。

Faithというのは、さまざまなものへの信頼だが、なによりも、自分自身を信頼すること(自信)だという。

「本当はあるはずなのに、ないものにしていること」

 「自分を信頼する」ということだが、多くの人の場合、「条件つきの信頼」しか持っていないと、松木さんは指摘する。

つまり、社会から求められることを実行できる能力を持っていることで、初めて自己肯定できるような在り方だ。

必要な自分への信頼とは、そうではなく、他人が評価しようとしまいと、自分が生きていることを根底的に肯定している状態だ。

そして、自分への信頼を持つためには、「本当はあるはずなのに、ないものにしていること」に目を向けることが必要だという 。


(以下は、講演会の中で語られたことではなく、筆者が考えた事例です。講演会時には、具体的な事例がなかったので)

例えば、クラスの中でイジメが起きている時、自分の安全のため、見て見ぬふりをしたとする。

こうした時、「仕方ないんだ」と自分に思い込ませようとするけど、一方で、もやもやする気持ちが残る。

あるいは、仕事でもプロジェクトがうまく行っていないとき。「きっとうまく行くに違いない」と、勝手に希望的観測をして、不安から逃げようとする。

こうした場合、自分の中にある不安や恐怖から逃れようとする傾向は、自分を振り返ってみても、多くある。人間は「ダメな自分」を認めることが、往々にして怖かったりする。


また、「あるのにないことにしていること」には、この記事の冒頭で書いたような、「なんだか体を動かしたい気分」のような、言語化しづらい衝動もあると思う。

こうした衝動は、意味付けがされづらい。そのため、「そんなことより、溜まっている仕事を片付けなきゃ」というように、後回しにされがちだ。

しかし、本当の自分の主体性、自己肯定感を獲得するには、こうした「言語化がうまくできないけど、もやもやしている感覚」にこそ、向き合う必要があるという。

(つづく)

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