誰かに「正解」だと言ってもらいたい心理

2018年6月16日土曜日

t f B! P L

他人に「正解」を求める優等生的心理?

 「大人になると、正解のない問題が増える」。

幼い時分から学生時代にかけて、こんなことを大人たちから何度か言われたことがある。

どんな仕事に就くか、結婚をするかしないか。人生に影響を及ぼすような大きな判断の場合、何が正しい選択かは、一概には言えない。

こうした大きな話ではなくても、例えば、日常生活での時間の使い方もそうだ。

限られた人生の時間を、金にならないブログを書くことに使うか、ビットコイン取引のようにお金になることに投資すべきか。

こうしたことも、人によって考え方が異なるので、「これが正解だ」というのは示すのが難しい。


「正解がない」ことをどのように判断するか。社会人になって考える機会が増えた。

その中で「正解のない問題」を自分なりに考えるスキルを養ってきたつもりである。

しかし最近、自分に「他人に”正解だ”と言ってもらいたい」「答えを出してもらいたい」と感じる場面が意外と多いことに気付いた。

自分のやり方に迷いが生じて、考えるのに疲れ「早く安心させてほしい」といった心境といおうか。

具体事例は差し障りがあるので書けないけれど、最近、このような感情を自覚した場面が公私ともにあった。

正解病は日本の教育が原因?

他人に正解を求めたがる傾向に関して、ネットではこんな記事が出てくる。

日本を蝕む「答え教えて」病 
(Outward Matrix)

教育界にまんえんする「正解主義」を超えて「情報編集力」のある子どもを育てる 
(朝日WEB RONZA)

これらによると、「正解病」というのは、日本の受験重視の教育が原因だという。

つまり、テストで高い点数を取ることばかりを重視するような教育の在り方が、「唯一絶対の正解を欲しがる」心象を日本人の中に作り出してきたというわけだ。


これらの記事を読んだのは最近だが、「自分の頭で考える子どもを育てる」という教育思想は、すでに自分の学生時代には盛んに言われていた。

だから、自分も自分なりに物事を考える姿勢を培ってきたつもりだった。「自分はそんな人間じゃないぞ」という一種のプライド(傲慢さ)があったのである。


だから最近、自分の自信のなさを感じて、「自分も正解病の患者であり、結局、殻を打ち破れない人間なんだろうな」と感じて落ち込んだのだ。

(社会に出ると分かるが、世の中で面白いことをやっている人間というのは、子ども時代にヤンチャだった人が多い。自分は学生時代、優等生的な人間だったので、自分はつまらない人間だというコンプレックスを持っている。)

「正解」って何だろう?


ただ、ここで改めて「そもそも自分は何を”正解”と感じているんだろう」と省みてみた。

人生の問題は、「1+1=2」のような問題とは根本的な設定が異なるので、そのような答えは出しようがない。それは誰でも分かることだ。

(米国の発明王エジソンのように「1+1=2は正しくない」と考える人もいるので、これも議論の余地があるが、それは置いといて)

では、「他人の中に正解を求めている」ときの自分は、いったい何を求めているのだろうか? 

そうした場面を振り返ってみて思うのは、自分が望んでいるのは「唯一無二の答え」ではなく「今の状況の中でよりベターな解決策」だということである。

つまり、「他人に正解を出してもらいたい」と感じている時とは、「自分の考えよりもベターな解決策を他人が持っているんじゃないか」と感じている場面なのだ。


「正解のない問題」といっても、実際にそれに向き合ううえでは、何らかの答えを出して行動せざるを得ない。

その際、まだ見ぬ理想像(哲学でいうところの、プラトンのイデアのような)として、「正解=もっとベターな解決策」があると仮設定すること自体は、必ずしも悪いことではないと思う。

(もっとも、「自分で考える前に他人に答えを聞きたがる子どもたち」という、教育現場でよく指摘される問題は、また別の角度から考える必要があると思うが)


正解の所在はどこにあるのか?

「他人に答えを求めたがる」感情が起きる場面を考える中で、もう一点、気付いたことがある。

それは、「他人に評価されなければならない」場面こそ、そのような不安を感じやすいということだ。

自分個人の人生に関わる決断であれば、他人から何か言われても「大きなお世話だ」と反発を感じることも多い。

しかし、他人から評価される必要がある仕事(開発した商品を売るなど)や、団体運営に関わる決断などは、「これで自分の決断は合っているのか」と不安を感じやすい。

なぜなら、「他人に評価されなければならない」場面とは、そもそも答えが自分の中にはないからだ。


自分がどのように生きていくかという問題は、基本的に自分の中に答えがある。

一方で、例えばクライアント向けに提案をするとか、あるいは団体の運営に関わる場合、そもそも、答えは自分の中にはない。

仕事の場合、答えはクライアントや消費者の中にあるだろうし、団体運営の場合、答えは、自分と他のメンバーの”間”にあるだろう。

自分がすべきなのは、自分の中から答えを出すのではなく、他者の中にある答えを引き出す”産婆役”になることなのだ。

「自分の判断が正解か分からない不安」への対処方法は?

何らかの課題に向き合うときは、まず「この問題は、そもそも誰の中に答えがあるのだろう」と考えた方がいいのではないかと思う。

ただ、「答えが分からない不安」というのは、とても不快な状態だ。

だから「不安を早く解消したい」という思いが先立って、本来の答えを持っていない手近な他人に答えを求めてしまうという事態が生じがちではないかと思う。

(大企業の弊害として取り上げられることが多い、上司や社内査定ばかりを向いて仕事していて、消費者やクライアントを見ていないという態度など)

「正解病」の弊害があるとすれば、こうした不安に耐える力がないことなのではないかと思う。

今回はここらで力尽きたのだが、この問題、後ほど改めて考えてみたいと思う。






QooQ