たまにはヘタレてもいいんじゃない?

2018年6月30日土曜日

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オレはまだ本気出してないだけ?

「君は、『俺はまだ本気出してないだけ』の主人公そっくりだな」

前職を辞して間もないころ、ある人からこのように言われたことがある。

『俺はまだ本気出してないだけ』(青野春秋、小学館)とは、2007〜12年にかけて全5巻で公刊されたマンガ。

「こんな生き方、なんか違う」というモヤモヤに駆られて会社を辞め、マンガ家を目指すバツイチ40男・シズオを描く物語だ。

当然、40になって描き始めた男のマンガが売れるほど、世の中甘くない。

中年男の悲哀がたっぷり込められた滑稽なストーリーが共感を呼んだのだろう。

このマンガは評判となり、2013年には堤真一の主演で映画化もされた。



このマンガは読んだことがなかったけど、だいたいのストーリーは耳にしたことがあった。

このマンガに関して指摘してくれた人は、要は、自分にこう言いたかったのだろう。

「「やりたいことをやる」とか偉そうなことを言って、30歳過ぎて結婚もせず、挙句に仕事を辞めたりしているお前は“ただのヘタレ”やん」と。

自分は自分なりに真剣なつもりだったので、「そんなことはない!」とムキになって反発した。


前職を辞したことは、自分なりの考えがあってのことなので後悔はしていない。

ただ、「お前ただのヘタレやん」という指摘に関しては、思い当たる節が色々とあるのである。

自分は、体が弱いこともあるが、ものごとを短期間に徹底的に突き詰めてやるのが苦手だ。

で、そういったものがくると、何かと言い訳を付けて逃げたくなる。

その割には「自分が納得する生き方をしてみたい」という願望がそれなりに強い。そのせいで人生に迷走している観がある。


ユング心理学に「シャドウ」という言葉がある。

人間というのは、自分が無意識のうちに抱いている「受け容れたくない自分」を体現している他者(=シャドウ)を見ると、やたらと反発を感じるものなのだという。

おそらく、「君は『俺はまだ本気出してないだけ』の主人公そっくりだな」と言われたとき、無意識のうちに主人公・シズオに自分のシャドウを感じ取って、ムキになったのだろう。

(ちなみに『俺はまだ本気出してないだけ』は、まだ1〜2巻しか読んでいない。ブロガーのイケダハヤトさんが素敵な感想を書いているので、続きを読むのが楽しみである)

ヘタレるのもたまには悪くないかも


ただ、最近、「たまにはヘタレるのも悪くないかも」と思う(開き直る?)ようになった。

今、ある資格試験を夏に受ける予定で、仕事以外の時間の大半をその勉強に費やしている。

ただ、折からの暑さもあって、自分の頭も体も疲弊しているのを感じた。

そんな中、「なんか面白い本が読みたい」と本屋に立ち寄り、町田康さんの小説『夫婦茶碗』をたまたま手に取った。

これも、ヘタレで働かない自分を色々と言い訳をしながら迷走する男の物語だが、『俺はまだ本気出してないだけ』同様、思わず笑える場面が沢山ある。

例えば、お金がなくギスギスしてきた妻との関係に”うるおい”を取り戻すため、夫婦の会話に冗談を導入する。

「君もスコッチ(少し)飲み給え」

「あなたが仰ることは全くの和歌山県(わからない)ですわ」

こういった会話を交わしているうちに、妻が呆れて家を出ていってしまい、「米がナイチンゲール(ない)」となって困る。

こんな、すばらしくアホらしい小説なのだが、読みながらふっと思ったことがある。


ヘタレというのは、緊張の中にリラックスをもたらしたり、あるいは陽と陰のバランスをとったりするといった効果があるのかもしれない。

あるいは、チームが無理をしているときに、誰かが率先してヘタレる(「休みたーい」と申し出る)ことで、みんなが休める機会をつくったり。

このように、社会を成り立たせるうえで、ヘタレというのは存外、さまざまな役割を果たしている気がするのである。

また、直線的な思考では答えが見つからない問題に関しても、意外とヘタレてみたときに、良い解決策が見つかったりするかもしれない。

(人間の直線的な論理思考は、それほど完璧なものではないと思うので)


思い返してみると、自分が子どものときから好きだった小説やマンガは、だいたいヘタレ人間が登場するものだった。

というわけで、これから時間のあるときに「ヘタレ人間・文学特集」を書いてみたいと思った。

(ヘタレなので、果たして続くか分からないけれど)

和菓子のような”落ちこぼれ”


自分の尊敬する詩人が、ある詩の中で、「落ちこぼれ」という言葉について「和菓子に付けたいようなやさしさ」だと書いている。

それでいくと、ヘタレというのは(「たれ」という文字が入っている)、みたらし団子みたいなものかもしれない。

「落ちこぼれ」とは違うけれど、ちょっとした場面で、ほわっと人の心を和らげたり。

しかも、神社好きの観点からいうと、みたらし団子には厄除けの効果まであるのである。

(ちなみに自分はみたらし団子が好きである。)

前述の詩人のように、「華々しい意思」で落ちこぼれるというほどきっぷのよいものではない。

でも、そんなわけで、「たまにはヘタレてもいいんじゃない」と思いつつ、とりあえずこの詩で雑文を締めくくりたい。


「落ちこぼれ」 茨木のり子

落ちこぼれ
和菓子の名につけたいようなやさしさ

落ちこぼれ
今は自嘲や出来そこないの謂

落ちこぼれないための
ばかばかしくも切ない修業

落ちこぼれこそ
魅力も風合いも薫るのに

落ちこぼれの実
いっぱい包容できるのが豊かな大地

それならお前が落ちこぼれろ
はい 女としてとっくに落ちこぼれ

落ちこぼれずに旨げに成って
むざむざ食われてなるものか

落ちこぼれ
結果ではなく

落ちこぼれ
華々しい意思であれ



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