あじさいの色って、少しエヴァっぽいように思う |
水不足と豪雨
2年前(2016年)の6月、埼玉県の農家に田植えにいった際、驚いたことがある。これから苗を植えようという段階なのに、田んぼはカラカラで、地面がヒビ割れていたのだ。
2016年、関東では雨が少なかった。ただ、「水不足」というニュースを目にしても、正直、都内にいると実感がわかなかった。
それが、農村のこのような光景を目の当たりにしたことで、水不足の大変さを改めて痛感させられたのである。
関東では今年、昨年より1週間早い6月29日に梅雨明け宣言が出された。そのため、また水不足になるのではと心配になった。
ところが、西日本では今週、歴史的豪雨に見舞われ、多くの地域に影響が出ている。被害にあわれた方に、心からお見舞い申し上げたい。
(昨晩、知人がFacebookで佐賀県の被災地域に対する寄附情報をシェアしてくれた。自分も、被災地域にわずかながらでも支援したいと考えている)
雨が少ないのは困るが、降り過ぎると問題だ。雨も晴れも、ほんとうに両義的だと思う。
「他者という名の恐怖と、他人という名の希望」
ただ、今回の豪雨とは別に、雨にちなんで自分には好きな言葉がある。
「雨の日だって、楽しいことはあるのに」。
1995〜96年に放映されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終26話「世界の中心でアイを叫んだケモノ」に登場するセリフだ。
『エヴァ』は社会現象を巻き起こしたヒット作だが、自分が初めて観たのは大学生のときだった。
「他者という名の恐怖と、他人という名の希望」。
『エヴァ』には、このような言葉が出てくる場面があるが、これがこの物語の根源的なテーマではないかと考えている。
(2007年以降にリメイクされている新劇場版は、いささか事情が違うようだが、ここではあくまで1990年代につくられた作品を指している)
人間にとって、他者は、愛情といった「希望」を与えてくれると同時に、自分を傷つけることもある両義的な存在だ。
『エヴァンゲリオン』は、主人公(碇シンジ)が、「他者から受け容れられたい・他者を受け容れたい」という願いと、「他者から逃げたい・拒絶したい」という恐れの間で揺れ続ける物語だと思う。
他者からの承認欲求が強いほど、他者に対する恐怖心も強まる。他者に拒否されたときに傷つくのが怖いからだ。
自分は、中学・高校を通じてうまく友人を作れなかった。大学時代は、そのような自分の対人コンプレックスを意識することが多かった。
そのためだろう。『エヴァ』を初めて観た時、「まるで自分の話だな」と感じた。
『エヴァ』TV版の最終2話(25話と26話)は、以下のような問題に関して、主人公のシンジが延々と自己内対話を続ける。
「僕に生きる価値はあるのか」
「なんで生きるのか」
「そもそも、僕って何なんだ」
自己問答を続ける中で、シンジは、この世界が「自分の心」と「他者との関わり」の相互作用によってつくられていることに気づく。
そして、
「晴れの日は気分よく、雨の日は憂鬱だと人から言われたら、そう思い込んでしまいがち」。
「だけど、少し自分の心を変えて見てみれば、雨の日も、楽しいことがあるかもしれない」と考えられるようになる。
(実際には、この問答は、主人公の心中に登場するさまざまな人物との対話という形で描かれている。そのため、「シンジが考えた」という表現には多少語弊があるが、説明をシンプルにするためにご容赦いただきたい)
さまざまなことは両義的である
雨にも、恵みの雨と、被害をもたらす豪雨がある。他者は、希望をもたらすとともに、自分を傷つけることもある。
このように、世の中の大半は、両義的なのではないかと思う。
キャリア形成などに関しても、ある会社に馴染めない・うまくいかないことが、逆に自分が好きな仕事を見つけるきっかけになることもある。
失敗が後の成功につながることもあれば、成功が後の失敗につながることもある。
世の中の出来事に関しても、このような「塞翁が馬」といった側面がある。
こうした中で、「雨の日も良いことがあるかもしれない」とは、たとえ一見悪いことが起きても、良い方に目を向け続けようとする姿勢だ。
初めて『エヴァ』を観たとき、シンジの苦悩に強く共感していたので、このような世界を肯定するメッセージが、薄っぺらく思えた。
ただ、それから10年以上を経て、この言葉のもっている”生きる心構え”としての深みが、多少なりとも理解できるようになった気がする。
オウム真理教事件と『エヴァ』から考えること
昨日(7月7日)、オウム真理教の元代表・麻原彰晃に死刑が執行されたというニュースがメディアで報じられた。
1995年3月に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教と、同年に放映が始まった『エヴァ』の持つ時代的な関連性は、早い段階から指摘されてきた。
実際、『エヴァ』の監督を務めた庵野秀明さんは、1996年に哲学者の東浩紀さんと行っている対談で、以下のような発言をしている。
(他人のサイトの孫引きなので、正確性に欠ける可能性があることをお詫びします)
「オウムとは同世代だと思います。(彼らの抱えていた問題は)良く判りますね。」
「僕らはオウム的な部分はものを作ったりして、合理化というか、昇華してきた。オウムにいた人はそれをやらなかった。本当に世間を憎んで、自分たちの意志で閉鎖、実践してしまった。団体自体が昇華すれば良かったんですが、どんどん自転車操業的にぬかるみに入って行って、最終的に自滅したんだと思います。」
(『新世紀エヴァンゲリオン』をめぐって(庵野秀明×東浩紀) 《STUDIO VOICE》1996年10月號)
『エヴァ』とオウム真理教について考えていて、自分が思い出したのは、前述したTV版最終2話を再編集した映画『Air』『まごころを君に』(1997年公開)の最後のシーンだ。
さまざまな出来事の後で、ヒロインの1人であるアスカに再会したシンジは、彼女の首を締めて殺そうとする。
アスカは、シンジにとって共に戦う仲間である一方で、シンジに暴言を吐き続ける「傷つける他者」でもあった。
アスカの首にかけた手に力を込めるシンジ。しかし、彼は彼女を殺すことができず、その場で泣き崩れてしまう。
それを横目で見ながら、アスカは「気持ち悪っ」と小声で吐き捨てる。
(自分が初めて観たとき、ここでエンディング曲であるバッハの「主よ 人の望みの喜びよ」が流れた。バージョン違いで、流れないものもあるようだが)
このシーンを見た時に、総毛立ちそうになった。
「自分とは異なる考えを持っている」「自分の思い通りにならない」「自分を傷つける」。
そうしたことを受け容れ、それでも他者と一緒に生きていく。
この表現は、他者との関係に悩んだ果ての、庵野さんのギリギリの決意表明に思えたのである。
政府関係者によると、今回の麻原彰晃の死刑執行は、「平成に起きた最悪の凶悪犯罪を、平成のうちに決着させたかった」からだという。
ただ、オウム事件の根本にある課題、つまり今の社会で「生きにくい」と感じている人たちはどこをよりどころにすればいいのか、という問題は、今も十分に解決されてはいないと思う。
この区切りに、庵野さんが描こうとしたものを、改めて考え直したいと思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿