生産的ではない人間に価値はない?

2018年7月29日日曜日

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タイの農村でじゃれあう犬。
生産的でないかもしれないけど、かわいいですね

このところ、自分のFacebookでは、自民党の杉田水脈(みお)・衆議院議員の言動が話題になっている。

これは、杉田議員が月刊誌『新潮45』8月号に書いた寄稿での「(子どもを産めない)生産性のないLGBTカップルに税金を投入すべきではない」という主張に端を発したものだ。

自分もLGBTの友人がいるので、このような物言いには心が痛んだ。

自分はまだ件の寄稿を読んでいないので、杉田議員への直接の批判は差し控えたい。

ただ、「生産性」と「人間の価値」という点に関して、思うところがあるので、少し雑文を書かせて頂きたいと思う。

「人権」という概念にピンとこない

「生産性=人間の価値」という考え方を批判する際によく言及されるのは、「人権」という概念だと思う。

 ただ、自分は「全ての人間に人権がある」という考え方が、実はあまりピンとこない。

自分に限らず、日本にはそうした人が多いのではと思う。

というのは、日本では「全ての人に生きる権利がある」という考え方よりも、

「人様(世間)に迷惑をかけちゃいけません」

つまり、

「迷惑かけるような奴に生きる資格はない」

という方が、強い風潮ではないかと思うからだ。

そして日本の場合、

「自分には生産性がない=自分には生きる価値がない」

として、自殺したり鬱になったりする人も少なくないのではないかと思う。

自分は20代の頃まで自殺衝動が人並み以上に強かった方だと思うが、そのとき「自分は世の中の役立たずである=生きる資格がない」とよく考えていたものである。


人権以外で生産性と価値を考える観点

「人権」は、多くの悲惨な歴史を通して築かれた概念なので、自分も今後しっかり勉強しなければと思う。

ただ、人権とは別の角度から「生産性=人間の価値」という考え方には疑義があるので、その点を3つほど書いてみたい。


1,人類(国家)の存続だけが生きる意味ではない

10代から20代にかけて、自分はよく「生きることって意味のない徒労だな」と思っていた。

当時、よく考えたことがある。

50億年後、太陽が膨張して地球を含む太陽系の星をすべて飲み込むらしい。

さらにその後、宇宙が収縮し、すべての星は潰されてしまうらしい。

そんな宇宙の話を読んでいて、人類もいつかは滅びるのだろうと思った。

「生産性」というのは、基本的に社会の維持・発展に役立つ能力があるということである。

しかし、最終的に人類が滅亡してしまうのであれば、生産性がいくらあっても意味はないし、自分の生きる意味もないように思えた。


ただ、その後、少しばかり人生の浮き沈みを経験したのと、ヨガや禅の「今ここに生きる」という哲学を知って、少し考え方が変わった。

というのは、本当に良い社会とは、長く存続するというよりも、できるだけ多くの人間(と他の生物)が、

「生まれてきてよかった」
「(死に際に)オレの人生、そんな悪くなかったんじゃない?」

と感じられる社会ではないかと思うようになったのだ。


社会の存続は大切だし、そのための生産性も大切だと思う。

ただ、死すべき運命を持つ人間にとって、生産性とは「幸せな社会」という「目的」を達成するための「手段」に過ぎないのではないかと思う。

その意味で、「生産性がない=生きる価値がない」という考え方は、目的と手段が本末転倒になっているように思えるのである。


2,何が生産的かは一見して分からない

前に、ある女性から「ゲイの人のほうが安心して悩み事を打ち明けられる」と聞いたことがある。

というのは、「ゲイの人の方が、通常の男性に比べ攻撃的でないから」らしい。

ゲイにもさまざまな性格な方がいらっしゃると思うので、あくまでこれは彼女の私見だと思う。

ただ、その話を聞いてふと思ったことがある。

一見、子作りに関わってないように見える人が、子どもを産み育てる女性(あるいは夫を含む家族)を見えない形で支えている、ということがあるのではないかと思う。

LGBTの方々に限らず、子どもの面倒を見てくれるおじいちゃん、おばあちゃんといった方々もそうだろう。

なにが生産性に結びついているかは、目に見えづらい部分があり、簡単に判断できないのではないかと思う。

(なお、仕事面から見ると、LGBTにはすばらしい能力をお持ちの方が多いと感じている)


3,評価のモノサシを複数持つこと

生産性というと、現代の日本では主に

・GDP拡大(会社などでの業績向上含め)への貢献能力
・社会の存続(子作り、軍事など)への直接的な貢献能力

というモノサシで図られるのではないかと思う。

ただ、単一のモノサシで評価される社会は、たとえ全員が努力しても「相対的に生産性が低い人」、つまり「ダメ人間」が生み出される。

(徒競走では、全員ががんばっても、順位が付けられるのと同じく)

このような社会は、「より生産性の低い人たち」を「より生産性の高い人たち」が踏み台にすることで成り立つ側面が出てしまう。

常に「犠牲の羊」を生み出すような、このような社会はあまり幸せではないように感じる。

これを避けるためには、モノサシを複数化することが大切ではないか。

例えば、「GDPに大きく貢献しているわけではないけど、一緒にいるとほっとする」といった人。

こうした人を大事にすることも、幸せな社会をつくる上で大切ではないかと思う。


生産性の大切さを踏まえたうえで

 もっとも、自分は生産性の大切さを否定するつもりはない。

たとえば、人類はこれまで農業の生産性を上げることで、現在の数の人間を養えるだけの食糧をつくる仕組みを築いた。

自分はおよそ体が頑丈でない方だが、日本と世界の多くの先人たちの努力がなければ、この歳まで生きれなかっただろう。

そういう意味で、自分は、生産性改善に血と汗を流してきた先人たちに、深く感謝したいと思う。


また、政治とは、つまるところ有限なリソース(税金etc)をいかに分配するか、という問題だ。

ここにおいては、どうしても「AよりBを優先すべき」といった価値判断が避けられない。

その点では、自分が書いたことは、あまりにもナイーブだと思う。

それを重々承知しつつ、今後も自分なりにこの問題を考えるための里標として、現段階で感じていることを記録しておきたい。

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