会場に入ると、外の喧騒が遠ざかっていった。
ヘッドフォンを付けると、世界はさらに静まっていった。
雑音が退いていくと、自分の心の様子がはっきり感じられた。
「ダイアローグ・イン・サイレンス」とは?
先週の日曜日(7月29日)、新宿で「ダイアローグ・イン・サイレンス」に参加した。
これは、1988年以来、世界40カ国以上で開催されたドイツ発祥の「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」の姉妹版である。
タイトルが示すように、「ダーク」は暗闇の中で、「サイレンス」は静寂の中で、他者とゲームやグループ作業を行うワークショップだ。
新感覚のエンターテイメントとして話題になり、「サイレンス」だけでもすでに世界で100万人以上が参加しているという。
このブログで以前、自分が頭痛持ちだと書いたことがある。
頭痛が辛いときには世界は暗く、健康なときには世界は明るく見える。肉体的な要因によって心(脳)が見る世界は大きく変わるのだ。
そう気づいて以来、五感を揺さぶるような試みに関心を持つようになった。
残念ながら、日本では「ダーク」は大阪でしか開催しておらず、「サイレンス」も常設の開催地はない。
しかし先日、Facebookに「今夏に東京でサイレンス開催決定」という広告がアップされていたのを見つけて、一も二もなく申し込んだのだった。
中は基本的に撮影禁止だし、ネタバレも控えた方がよいと思うので、ここではあくまで自分が感じたことを記しておきたい。
※より詳しく様子を知りたい方は、こちらの記事を参照ください。
ダイアログ・イン・サイレンスで僕が学んだ「伝える努力」の大切さ【コミュニケーションに悩むすべての人に】
静寂の中で落ち着く心
「ダイアローグ・イン・サイレンス」では、防音性の高い会場を使うのはもちろん、参加者は音の出やすいアクセサリーなどを外すよう求められる。
さらにワーク時は、遮音用のヘッドフォンも耳に付ける。
こうして、完全に無音ではないが、日常生活ではまず体験できないレベルの静寂が味わえる。
先週末、自分は仕事や試験勉強でそうとう疲労が溜まっていた。
頭が疲れていると、「あのプロジェクトどうしよう」とか、「しまった、あれを買い忘れた」と脳内で雑音が鳴り続け、目の前のことに集中できないものだ。
しかし、「サイレンス」の会場に入り、ヘッドフォンを装着すると、外からの雑音がなくなった分、自分の中で鳴っている音がよく聞こえた。
「あー、心がざわついてるな」と自分の心をしばらく見つめていると、気持ちが落ち着いた。
静かで賑やかな空間
このように書くと、「静寂の空間って、要は瞑想と同じようなモノなんでしょ」と思うかもしれない。ところがどっこい、必ずしもそうではないのである。
「サイレンス」には、身振り手振りでギターやピアノといった楽器を表現するワークが出てくる。
ここでは、最終的にオーケストラの真似事まで表現するのだが、これがなんとも「賑やかに聞こえる」のだ。
単に、過去に聞いたオーケストラの曲が脳内で再生されている、と言うわけではない。
指揮者に合わせて、自分がドラムを叩き、周りの人がピアノを引き、ギターを掻き鳴らす。
皆でそんな身振りをしていると、音は出てないのに、辺りの空気がなにかで満たされているような気がしてくるのだ。
この感覚、いまだにうまく言葉にできないのだけど、「聴覚障害の人も、もしかしたら意外と賑やかな世界に住んでいるのかも」という気がした。
コミュニケーションのための努力
「ダイアローグ・イン・サイレンス」では、約1時間のワークの後、参加者同士で振り返りを行う。
ここでは、ある参加者から「ふだん、相手の目や顔をちゃんと見て話していないことに気付いた」というコメントが出たことが印象的だった。
多くの人は、話すことに加え、メールやLineなど「書く・読む」ことを通して他者とコミュニケーションを行っていると思う。
その一方で、「ダイアローグ・イン・サイレンス」では紙やペンも使わないので、基本的に書き言葉による意志の伝達できない。
そうなると、相手の表情をよく見なければ、コミュニケーションが成り立たなくなるのである。
日本人は、全体的に他者と目線を合わせて話すのが苦手な人が多いかと思う。
自分の場合、子どものころは他人の目を見て話す傾向が強かった。しかし、大学生のとき、ある年上の人から、
「●●君のように顔をじっと見つめられると、相手は威圧感を覚えるよ」
と指摘されて以来、会話中は努めて相手から目線をそらすようになった。
今では逆に、相手にまじまじと見つめられると、自分が威圧感を覚えるくらいであるだが、それで失ったものは小さくないのかもしれない。
「サイレンス」を体験した後でそのように感じた。
表情や身振り手振りでのコミュニケーションは、言葉よりも大きな労力がかかる。
伝えられる情報量は少ないし、読み取る方も苦労する。
でも、「その人の存在感」はより深く伝えられるし、「あなたに伝えたい」という気持ちの含有量はずっと大きくなるように思う。
今の世の中で、というか、いつの時代でも、「効率化」をまったく度外視するのは無理な話だろう。
でも、大切な部分は、このコストと労力をかける部分に存在する。
効率化と、自分の存在感を伝えることのバランス。
「ダイアローグ・イン・サイレンス」に参加して、結局考えさせられたのは、「自分は他者とのどんな関係を築きたいのか」ということだった。
なお、ワーク中、身振り手振りで他者とコミュニケーションをとりながら、ふと、初めて外国語で外国人と話したときのことを思い出した。
自分の気持ちが相手に通じること。自分の言いたいことを、相手が理解してくれていること。
恋愛的なきらびやかさではなくても、とても単純なレベルで、コミュニケーションとは人間の原初的な喜びかもしれないと感じた。
あくまでエンターテイメント
最後に1点補足したい。「ダイアローグ・イン・サイレンス」と「ダーク」は、一見すると、聴覚・視覚障害者について理解を深めるための活動に見える。
しかし、主催者側は、あくまで「エンターテイメント」と銘打っている。
「エンターテイメント」というと、「より笑える」「より興奮する」というように、たくさんの情報量と刺激を与えるものだというイメージがある。
だが、「ダイアローグ」シリーズには、むしろ刺激を減らして、参加者に自分の内面へ意識を向けるよう働きかけようとしているように見える。
「引き算の美学」を感じさせる日本の茶道は、安土桃山時代の「派手・豪華」文化に対する一種の「カウンターカルチャー」として登場してきたらしい。
今は基本的に「情報過多」の時代だ。情報もエンタメの種類も多く、消費者は山ほどある選択肢の中で混乱しがちなのではないかと思う。
「ダイアローグ」シリーズも、茶道と同じく、こうした時代における一種のカウンターカルチャー的な娯楽なのかもしれない。
こういう試みが今後、どんな方向性に発展していくのか、とても楽しみだ。
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