もの悲しく感じた田園風景
昨日の朝、東京駅から高速バスに乗って、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮を訪ねた。以前、ある記事で「東京は日本ではなくて別の国だ」という指摘を目にしたことがある。
自分は現在、東京近郊に住んでいるが、旅行や仕事で遠方に行く際、この言葉をよく思い出す。
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ところ狭しとビルが立ち並ぶ東京を少し離れると、とたんに「空間の密度」が薄まる。
千葉県や茨城県は山が少ないので、田園地帯に来ると、空が広く感じられる。
ただ、そうした風景を見ていて、同時にもの悲しくなることがある。
国道を進んでいくと、あちこちに古びた建物を見かける。
明らかに一昔前の「イケてない」デザインで、派手な宣伝文句が書かれた看板が埃をかぶって色あせている。
たぶん、高度経済成長期やバブルの羽振りの良い時代に建てられたものなのだろう。
派手な分、枕草子などで言う「すさまじ」といった感を覚えてしまうのである。
(東京にもそうした建物はあるが、空間の密度が薄いぶん、こうした場所では余計に目立つ)。
鹿島神宮の参道を歩いて:光のダンス
そうした風景を眺めがら2時間ほどバスに揺られた後、鹿島神宮に到着した。
鹿島神宮は紀元前660年に創建されたと言われ、古代の天皇家とも深い縁を持っている。
天皇家と神社の関係性やその歴史に関しては、識者によって意見が分かれるだろう。
ただ、鹿島神宮の参道を歩いていると、樹齢が数百年はあるだろう杉の大木の間から落ちる木漏れ日の美しさに、ハッと足が止まった。
そう、まるで光がダンスを踊っているようなのだ。
おそらく、この場が神々しく見えるよう、宮大工が計算して設計したのだろうが、2000年以上経ても古びない美しさに、思わず感動を覚えた。
「さび」ることができない建物たち
日本の伝統的な美意識に関して「わび・さび」という言葉がよく登場する。
外国の方に日本文化を説明するため、先日、この言葉を改めて調べたのだが、「さび」とは「ものが錆びていったり、古びて色あせていく、その様に美しさを見出す」美意識だという。
「サラピン(新品)のピカピカ感も悪くないけど、ちょっと手垢が付いてくすんでいるのも、温かみがあっていいよね」
たぶん、そんな感覚を言うのだろう。
(まあ、「温かみ」云々は自分の主観が入っているが)
カバンや財布といった普段使いのモノも、「使い込まれてちょっと色あせた方が、味があるよね」と感じる人はいると思う。
そこに、その人の人生の歴史が刻まれているからだ。
こういう感覚を「さび」と名付け、肯定的な意味を与えた過去の人々の貢献は小さくないと思う。
ただ、「さび」について考えながら、昨日に見た色あせた建物を思い出すとき、
「今の時代、「さび」ることができないで、物悲しい姿を晒している建物は日本にも世界にも沢山あるだろうな」
と思った。
時代が変わるとすぐにダサくなるもの
そのときは便利で良さそうに見えても、時代が変わるとすぐに「ダサく」なってしまうもの。変化が激しい現代では、そうしたものは沢山ある気がする。
そして、自分自身もたぶん、そうしたものを沢山つくっているのではないか、という気がする。
以前、新潟県の十日町で地元の方々の話をお伺いした際、「自分は次の世代に何を残せるだろうか」と自問自答したことがある。
僕たちは次の世代に何を残せるだろうか:新潟県・十日町で考えたこと
「古びて物悲しい感じがする」ことの原因の一つは、おそらく、人から手入れをされないことで、人の思いが抜け失せてしまうからだろう。
昔ながらの美観を保ち続けるには、相当な人の労力がかかる。
簡単なことではないのだが、もう少し、何かができないかなあ、と感じた。
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そんな真面目な話を書きつつ、この2日間、あちこちで夏祭りが開催されているのを見かけた。
楽しそうな家族連れや子どもたちの姿を見ていると、こちらの心も弾んだ。
そんなわけで、最後に一句つくって雑文を締めくくりたい。
夏祭り にやにや顔の おチビちゃん
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