カッコ悪くたっていいじゃん:朝井リョウ『何者』を読んで

2018年9月2日日曜日

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大学生の就活を描く『何者』

道を歩いていると、民家の軒先になっている青柿が目に入った。

自分は普段、オレンジ色に熟した柿しか見る機会がないため、新鮮だった。

「この青柿は一体、何になりたいと思っているのかな?」

これから色づいていくだろう青柿を見ながら、ふと、そんな他愛のない疑問が浮かんだ。

きっと、最近読んだ本の影響だろう。


先々週の日曜日(8月19日)、とある資格試験を終え、本屋をブラブラしていたとき、ふと朝井リョウさんの『何者』が目に入った。

朝井リョウさんは2009年に発表したデビュー作『桐島、部活辞めるってよ』で話題となった若手作家。

2013年の直木賞を受賞した彼の小説『何者』は、就職活動をテーマに大学生たちの葛藤を描いた物語だ。

就活という、現代日本で多くの人に共通する問題を深く描いた作品ということで、以前から気になっていた。文庫本を手に取ると、早速レジに持っていった。


冷めた目で他人を観察する元劇団員の主人公、就活をバカにしつつ同期生の動向が気になって仕方がないクリエイター志向の男子学生、偉そうな肩書を並べる女子学生・・・。

『何者』には多彩な若者が登場する。

彼らの心情や行動は、自分にも思い当たる節が多い。ページを繰っていると、時に楽しく、時に心が痛かった。

優れた小説を創造してくれた朝井さんに感謝しつつ、本書を通して改めて「自分は何者か」という問いについて考えてみた。

金を得るには何者かである必要がある

「自分は何者か」という問いは、そもそもどんな場面で発生するのか。

現代の日本人の場合、この問いには経済的な意味合いが強いと思う。

就職、転職、アルバイト探しを含め、仕事というのは大抵の場合、自分を知らない人たちに対して「自分は●●ができる人間である」と表明するところから始まる。

何者か分からない人間に、他人は金を払わない。金とは、他人から認められ、他人に役に立つことによって得られるものである。

自給自足の生活や、江戸時代の士農工商制度のように生まれたときから仕事が決まっている社会では事情は異なるだろう。

しかし、現代日本の、少なくとも都市で暮らしていると、仕事の側面から「自分は何者か」という表明をせずに生きていくのは難しい。

自分は何がしたいか

ただ、そもそも最初から他人に評価されるようなスキルを持っている人間なんて、ほとんどいない。

ほとんどの人は、最初に「自分は何がしたいか」を見つめ、ジタバタしてみる時期が必要だろう。

そういう意味で、『何者』の中に印象的なシーンがあった。


海外留学やボランティア経験を盛大にアピールしているにも関わらず、面接に落ちてばかりいる女の子が、物語の最後の方で、せきを切ったように語る場面がある。

「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれがわかっているから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ。だから私だって、カッコ悪い自分のままインターンしたり、海外ボランティアしたり、名刺作ったりするんだよ」

「今の自分がいかにダサくてカッコ悪いかなんて知ってる。海外ボランティアをバカにする大学生や大人が多いことも、学生のくせに名刺なんか持って、って今まで会った大人たちが心の中できっと笑っていることも、わかっている」

「自分が笑われていることだってわかっているのに、名刺作ったりしているのはなんでだと思う?」

「それ以外に、私に残された道なんてないからだよ」

(『何者』新潮文庫版の310〜311ページ)

この言葉を、物語の最後の方にもってきたことに、自分は作者の朝井さんの暖かさを感じた。

就活生に限らず、何かを新しく始めるにあたっては、他人から「カッコ悪い」「何をやっているのかよく分からない」と思われる時期を通過する場合が多いと思う。

この箇所は、そうした人に対する、「カッコ悪くたっていいじゃん」という励ましだ。

自分も、学生たちの目から見たらキラキラしたところのない大人だと思うが、この言葉を読んで「カッコ悪いままで、もうちょっとがんばろうかな」と思えた。

仏教の無我


もっとも、これはあくまで「金を稼ぐ」ということに限った話である。

金を稼ぐ上では、他者の評価が必要である。仕事上で自分が何者かというのは、自分が決めるというより、他人が決めるものだという側面がある。

ただ、自分の全てが経済と金を稼ぐことで成り立つわけではない。

むしろ、他人に評価されないけど「自分が好きで仕方ないもの」「自分がやるべき使命だ」を見出した人のほうが、ある意味、自分が本当に何者なのかを知った人なのかもしれない。


あるいは、仏教に「無常」「無我」という考え方がある。

これは、

「世界のあらゆる存在は、相互作用の中で常に変化している(無常)」

「それゆえ、決まった自分というものは存在しない(無我)」という考え方だ。

自分の身体を見ると、60兆個ある細胞のほとんどは、数日から数年おきに入れ替わる。

自分の感情も、ひとところにはとどまっていない。

こうした点を踏まえて、禅宗やヨガにおいては、「今ここ」に生きている自分の体に向き合うことを重視する。

他人からなんと思われようと、自分の心臓は今、脈を打っている。自分の肺は、呼吸をしている。自分の中を血が駆け巡っている。

それこそ現実というわけだ。

この考えの中にも、深い真実があると思う。


「自分は何者か」という問いを考えるとき、他者からの評価と、自分発のものの関係をいかに考えるかが、結局、肝になるだろう。

今回はここで体力が尽きたので、いったん筆を置きたいが、このことを今後も考えていきたいと思う。


青柿に寄せて

冒頭で紹介した青柿を見ながら、ふと、20代に比べて確実に老いている自分の身体を省みた。

自分の脳があれこれ考えている一方で、身体は確実に時を刻んでいる。これもまた、自分という存在に関する現実だ。

そんなことを考えながら、青柿に寄せてこんな句をつくってみた。


青柿や 何になりたい 青春の君

青柿や 何になっても 柿は柿




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