まあ、お茶でもどうぞ

2018年9月17日月曜日

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先週1週間、仕事で三重県に行っていた。

出張中は、朝から夕方まで取材して回り、夜は原稿作成に関する打ち合わせ。息をつく間もなく、頭痛も出て、疲れた。

ただ、帰りは少し寄り道して、名古屋で熱田神宮と名古屋城を訪れた。

「人生って忙しいものだ」

社会人になってそう感じるたびに、行きたい場所はチャンスがある時に訪ねないと、二度と行く機会は来ないと思うようになった。

だから、今回は、多少無理してでも行ってみたかった。


もっとも、家に戻ってきた後もやることが山積みで、昨日今日はその対応に追われた。

やることが沢山ある時、仕事を忘れる時間をつくるのが怖くなることがある。

仕事以外の何かをやっている間に、やるべきことを忘れて、後でとんでもないことが起きるんじゃないか。

あるいは、せっかく思いついた良いアイデアが、飛び去ってしまうのではないか。

そんな心配が、常に胸の内にあるからだ。

ただ、そうしていると、この弱い身体がすぐに疲れて動かなくなってしまう。

だから、どうバランスを取るか。いつも悩むところだ。


そんなことを考えながら、昨夜、JR飯田橋駅近くのそば屋に立ち寄ったときのことだ。

温かいおそばの黒く透き通ったつゆを見つめながら、ふと「喫茶去」という言葉を思い出した。

これは、直訳すると「まあお茶でもどうぞ」といった意味だが、次のような中国の故事に基づく禅語でもある。

趙州という中国の禅僧のもとにある日、2人の僧侶が訪ねてきた。

「こちらに来るのは初めてかな?」趙州は一方の僧に訪ねる。

彼が頷くと、趙州は「まあ、お茶でもどうぞ(喫茶去)」と言った。

それから、もう一方の僧にも「こちらは初めてかな?」と尋ねた。

彼が「いいえ」と言うと、「まあ、お茶でもどうぞ」と趙州は言った。

それを隣で見ていた寺院の院主が、「初参者にも再訪者にも、同じようにお茶を勧めたのはどういうわけですか?」と尋ねた。

すると趙州は、院主にも「あなたも、まあお茶でもどうぞ」と言った。


この公案は、さまざまな形で解釈されているが、自分は

「どのような状況だろうと、今、目の前にあることに心を込めて向き合いなさい」

ということだと思った。

食事中も仕事が頭から離れない。そうした状況はよくあることだろう。

ただ、この言葉を思い出した後で、改めて1杯のおそばに向かい合うと、心地よい塩分を含んだつゆや、つるっとした麺の喉越し、シャキシャキしたネギの食感が心に留まった。

客の少ないチェーン店の、つまらなそうな顔をした店主にも感謝の気持ちが湧いてきて、「どうもごちそうさまでした」と自然に言葉が出てきた。

そうして店を出ると、前に花壇があることに気づいた。

花壇には、目が冴えるような白と桃色の花が、闇の中に密やかに咲いていた。


秋の夜 急ぐこころと しずかな花


「今、ここを丁寧に生きよう」と語る人は多くいるが、意識しないとすぐに忘れてしまうものだ。

繰り返し、繰り返し、忙中に意識していくこと。

静かな花たちは、一つの気付きの鐘を鳴らしてくれたように感じた。

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