先週1週間、仕事で三重県に行っていた。
出張中は、朝から夕方まで取材して回り、夜は原稿作成に関する打ち合わせ。息をつく間もなく、頭痛も出て、疲れた。
ただ、帰りは少し寄り道して、名古屋で熱田神宮と名古屋城を訪れた。
「人生って忙しいものだ」
社会人になってそう感じるたびに、行きたい場所はチャンスがある時に訪ねないと、二度と行く機会は来ないと思うようになった。
だから、今回は、多少無理してでも行ってみたかった。
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もっとも、家に戻ってきた後もやることが山積みで、昨日今日はその対応に追われた。
やることが沢山ある時、仕事を忘れる時間をつくるのが怖くなることがある。
仕事以外の何かをやっている間に、やるべきことを忘れて、後でとんでもないことが起きるんじゃないか。
あるいは、せっかく思いついた良いアイデアが、飛び去ってしまうのではないか。
そんな心配が、常に胸の内にあるからだ。
ただ、そうしていると、この弱い身体がすぐに疲れて動かなくなってしまう。
だから、どうバランスを取るか。いつも悩むところだ。
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そんなことを考えながら、昨夜、JR飯田橋駅近くのそば屋に立ち寄ったときのことだ。
温かいおそばの黒く透き通ったつゆを見つめながら、ふと「喫茶去」という言葉を思い出した。
これは、直訳すると「まあお茶でもどうぞ」といった意味だが、次のような中国の故事に基づく禅語でもある。
趙州という中国の禅僧のもとにある日、2人の僧侶が訪ねてきた。
「こちらに来るのは初めてかな?」趙州は一方の僧に訪ねる。
彼が頷くと、趙州は「まあ、お茶でもどうぞ(喫茶去)」と言った。
それから、もう一方の僧にも「こちらは初めてかな?」と尋ねた。
彼が「いいえ」と言うと、「まあ、お茶でもどうぞ」と趙州は言った。
それを隣で見ていた寺院の院主が、「初参者にも再訪者にも、同じようにお茶を勧めたのはどういうわけですか?」と尋ねた。
すると趙州は、院主にも「あなたも、まあお茶でもどうぞ」と言った。
※
この公案は、さまざまな形で解釈されているが、自分は
「どのような状況だろうと、今、目の前にあることに心を込めて向き合いなさい」
ということだと思った。
食事中も仕事が頭から離れない。そうした状況はよくあることだろう。
ただ、この言葉を思い出した後で、改めて1杯のおそばに向かい合うと、心地よい塩分を含んだつゆや、つるっとした麺の喉越し、シャキシャキしたネギの食感が心に留まった。
客の少ないチェーン店の、つまらなそうな顔をした店主にも感謝の気持ちが湧いてきて、「どうもごちそうさまでした」と自然に言葉が出てきた。
そうして店を出ると、前に花壇があることに気づいた。
花壇には、目が冴えるような白と桃色の花が、闇の中に密やかに咲いていた。
秋の夜 急ぐこころと しずかな花
「今、ここを丁寧に生きよう」と語る人は多くいるが、意識しないとすぐに忘れてしまうものだ。
繰り返し、繰り返し、忙中に意識していくこと。
静かな花たちは、一つの気付きの鐘を鳴らしてくれたように感じた。
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