東京・高尾山を山伏と歩く:自然とともに生きる修験道

2018年6月2日土曜日

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無意識に働き掛けるメソッド?山伏の高尾山ツアーに参加

 「自分らしく生きている」ってどんな状態だろう?

先日、そんなことを考えていて、ふと「これって、意識(思考)と無意識、身体の3つが調和している状態じゃないかな」と思った。

自分の生き方が、「頭で考えた」主義主張と矛盾せず、さらに、深いところから喜びを感じられること。

ただ、この3つの中でも、特に無意識は、そもそも「意識できない領域」なので働き掛けが難しい。そこをどうするか。

こうした観点から、最近、伝統文化に興味を持つようになった。


先日、神社の構造を模してつくられた「「世界一集中できる」ワーキングスペース、「Think Lab」を紹介した。

これは神道だけど、仏教やヨガを含め、長い歴史をもつ伝統文化の中には、人間の無意識と意識、身体の調和を図るさまざまなメソッドがあるように感じている。


その一環として、最近、神道と仏教の混合宗教である「修験道」にも興味を持つようになった。

そして、つい先日、修験道の行者「山伏」の方と東京・高尾山を登るツアーに参加させて頂く機会に恵まれたので、その話を書きたい。

修験道と山伏の山、高尾山

中澤さん(左)と

修験道とは、自然の中に神を見出し、山の中で修行をすることで霊力を得たり、悟りを目指したりする日本独自の宗教だという。

「山にこもって修行する」というと、マンガやアニメの主人公が山の中にこもって修行するシーンが思い浮かぶが、おそらく、日本人には古くから割と身近な宗教だったのだろう。


Wikipediaで調べたところ、修験道に関係する山は日本各地にあるらしい。このうち、東京周辺の代表的なスポットの一つが高尾山だという。

(高尾山には「ハイキングが楽しめる観光地」くらいのイメージしかなかったけど、たしかに高尾山薬王院のHPには、修験道との関係が書かれている)


このたび、自分が参加させて頂いたのは、「平野五流講」という修験道の宗派の山伏、中澤広隆さんのツアーだ。

中澤さんは「祈りの山旅」の屋号で、「堅苦しく考えず、まずは山に登って感じてみよう」といった趣旨の、宗教宗派にとらわれない旅の会を主催されている。

中澤さんは旅行業の資格をお持ちで、山伏の活動とあわせて富士山で登山ガイドもされているが、実際、登山中は歴史人物や芸能人のウンチクを聞けて楽しかった(笑)。


高尾山6号路の湧き水に設けられた祠 

行楽客でにぎわう高尾山口駅

5月27日(日)9時半。高尾山口駅に集合し、登拝がはじまった。参加者は僕を含め4人だった。

(こじんまりとしたツアーだったので、中澤さんといろいろ話ができて楽しかった)

登山口近くのお堂

はじめに、登山口にある小さなお堂にお参りした。

「これから登拝させていただきます」と神仏へごあいさつし、中澤さんがお経を挙げた。

(僕も般若心経の部分だけは分かったので、一緒に唱和した)

それから、自然豊かな6号路を登り始めた。

登山口近くの錫杖の形をした柱

6号路の入り口には、山伏が持つ錫杖と同形の柱が立てられていた。これも、高尾山が山伏ゆかりの地であるからという。

途中で見つけた祠。地元の方々が大切に手入れをしている様子が伺えた

途中、湧き水が出ている場所に設けられた祠をいくつか目にした。

中澤さんは、「水は命の源。そのため湧き水が出る場所には祠が設けられることが多い」と解説してくれた。


この話を聞きながら、改めて水が飲めることの有り難さを思った。

前職で、日本で農業を学んでいるケニア人留学生に取材したことがあるが、ケニアは近年、干ばつがひどく、農業が危機的な状態なのだという。

(昨年3月にも、干ばつで110万人もの子どもが食料不足に陥ったというニュースが出ていた)

ケニアに限らず、近年、世界中で干ばつが増えている。今後、数十年の間に、ふたたび食糧不足が問題になるかもしれない。

中澤さんの話を聞きながら、「水を守る文化」の意義について改めて考えさせられた。

山伏の歩き方:重力は地球の愛

川沿いを歩くと気持ちよかった

「私は、人間の身体とは”地球からの借り物”だと思っています。今生において、自分が偶然この身体で生まれた、というだけで」。

登拝の前々日(25日金)に開催されたトークイベントで、中澤さんはそのようにおっしゃった。

それも踏まえつつ、27日の登拝時、中澤さんは山伏流の歩き方を教えてくれた。

それは「地球の重力に身を委ねて歩く」ということだ。

身体を少し前に傾けると、倒れないように足が自然と前に出る。そのように「自然と足が前に出る」形をつくっていくと、山道を疲れずに歩けるという。

逆に「前に進もう」と意識しすぎると、むやみと筋肉を使ってしまい、疲れるのが早い(自分も実際にやってみて、効果を実感した)。

途中で少しだけ裸足で歩いた。素足に近い方が身体の使い方が分かるという

これに関連してもう一つ、素敵だと思った中澤さんの表現を紹介したい。

それは、「重力は”地球の愛”」という言葉だ。

前述の歩き方を説明してくれた際にさらっと口にされたのだが、聴いた瞬間に思わず胸がときめいた(笑)。


人間が宇宙空間で暮らすようになった時代を描くSF、『機動戦士ガンダム』シリーズの小説版に「重力の井戸の底」という表現が出てくる。

不安定な宇宙空間で暮らす人間にとって、地球の重力に身を委ねられることが、どれほど深い癒やしとなるか。

作者の富野由悠季さんは、宇宙時代を生きる人間の存り方を豊かなイマジネーションで描き出している。

「重力」を意識して山伏流に歩いてみると、『ガンダム』のこの表現の意義がより深く理解できるように思えた。

煩悩即菩提:悟るためには煩悩が必要

山頂。残念ながら富士山は見えなかった

中澤さんのガイドに耳を傾けながらゆっくり登ったので、山頂に着いたのは12時近くになっていた。

ここでお弁当を食べながら小一時間ほど休憩した後、薬王院を参拝した。



持ち上げると願いがかなう石。石を撫でながら持ち上げようとすると軽く感じられるらしい

薬王院では、境内でお参りしたり、お経が書かれた石ぐるまを回したりしながら楽しんだが、ここで印象的だったことがある。

愛染明王のお堂

縁結びに関連する仏である「愛染明王」のお堂にお参りしたときのことだ。

ここの解説文に「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉が書かれていた。

これは大乗仏教の用語らしいが、字義通りに解釈すると「煩悩が、そのまま悟りにつながる」という意味になる。

「悟りって、煩悩がなくなった状態じゃないのか」

そう考えるのが一般的だと思うが、実際、愛染明王について解説しながら、中澤さんも「自分も以前、煩悩というものをどう考えたらいいのか悩んだ」という。

そのうえで、「悟りとは、多くの煩悩を経験し、煩悩の扱い方を学ぶことで得られるものではないか、と思うようになった」「悟るためには、そもそも煩悩が必要なのではないか」と語った。

(なお、これはあくまで中澤さんが語った言葉を、僕の記憶から再解釈したものだ。彼はもっと微妙なニュアンスの言葉遣いをしていたが、それをそのまま再現できないことをお詫びしたい)

境内に祀られた天狗

修験道では、山で修行して霊力(超能力)を得た人間を「天狗」として崇めるという。実際、薬王院にも天狗の像がまつられていた。

しかし、中澤さんは「天狗には二面性がある」と指摘した。

というのは、「増長し傲慢になった人を『天狗になる』と表現するが、修行して優れた力を手にした人ほど、傲慢になりやすい」からだという。


個人的に最近、「陰と陽」の考え方に心惹かれるようになった。これは、世の中を善悪で分けず、さまざまな要素のバランスを取ることを重視する思想だ。

煩悩が必ずしも悪いものではない。超人的な力を手にした人間が必ずしも善人とは限らない。

こうした考え方にも、陰陽に通じる智慧があるように感じられた。

高尾山を開き続ける努力に感謝

たこ杉

薬王院に参拝をした後、下山を始めた。

途中、高尾山の名物である「たこ杉」を見た。文字通り、根がタコのような形に広がっているユニークな杉だが、

「根っこにのぼらないで!!」
「幹や根に触らないで!!」

と書かれた看板が貼ってあるのが目に止まった。

高尾山は現在、多くの人が訪れる人気の行楽地だが、中にはマナーを守らない人もいるだろう。実際、近くの看板には、たくさんの落書きがあった。

そうした事態への対処は大変だと思う。それでも山を閉ざさず、人を受け容れ続ける。そこには、地元の方々の大きな努力があるのだろうと思う。

さまざまな方のご尽力により、自分は今日、すばらしい体験をさせて頂いている。心の中で、深く感謝を述べた。


高尾山では生物多様性の保全にも力を入れている

同時に、こうした豊かな文化と自然を持つ場所を守るために自分に何ができるか、考えさせられた。

グルメを食べて俗世間に戻る

東海道の自然歩道を示した案内図。この道を歩いてたどる山伏の方もいるらしい

ふもとに戻ってきたのは15時半過ぎ。

登山口にあるお堂で無事に下山できたことを感謝し、他の参加者や中澤さんと記念撮影させて頂いた後、解散した。


修験道では、山で心身を清めた後、俗世間に戻る前にわざとグルメを食べたり、お酒を飲んだりするという。

山で修行して気持ちが高揚した状態のまま俗世間に戻ると、おかしな失敗をしやすいから、という理由らしい。

(マジメ一辺倒ではなく、こうした「脱力」をうながすような現実的な教えがある点も、修験道が長い歴史の中で練磨された文化なのだと感じる)

なので、自分も高尾山口駅前で売っていた焼き団子なぞを頬張りながら帰途についたのだった。


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