ネイティブアメリカンのスウェットロッジ体験②:弱さと自分らしい生き方

2018年5月26日土曜日

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スウェットロッジ。手前の石を熱して、儀式の中でつかう

弱さを受け容れる:「自分らしい生き方」の2つの側面

自分らしい生き方」を考えるにあたっては、いくつかの切り口があると思う。

一つは、「好きなことを仕事にする」ということだ。

実際、「自分らしい生き方」というキーワードでググってみると、ブロガー・イケダハヤトさんの記事を筆頭に、「好きを仕事にする」ノウハウに関する記事が多く出てくる。

だが、こうした「積極的」な自分らしさの追求に対し、「消極的」な自分らしさの追求もある。

その一つが、「弱さを受け容れる」ということだ。

虚勢をやめて、自分が楽に生きられるようにすること。これは、「自分らしさの追求」というより、「あるがままの自分」「素の自分になる」と表現した方がしっくりくるかもしれない。

ただ、人が「弱さ」と感じるものの多くは、社会において「価値が低い」「通念に反している」とされる要素だ。

例えば、働くことがノルマとされている現代の日本社会において、病気などで十分に働けない人が居心地が悪さから逃れるのは難しい気がする。

あるいは、我が身を振り返ってみると、「20〜30代くらいで強くなる=努力することを手放してもいいのか、それで世の中生きていけるのか」といった疑問も出てくる。

そんなことを考えていると、「弱さを受け容れる」とは、一見分かりやすいようでいて、その実とても難しいことではないか、という気がしてくるのである。

弱さを表明できる場所:ネイティブアメリカンの儀式「スウェットロッジ」

今回のワークショップでは、およそ3〜4時間かけて、富士山から取れた溶岩を熱した(溶岩は熱の保ちがいいらしい。また、「地球のエネルギーを頂く」という意味もあるのだとか)

前回、ネイティブアメリカンの智慧を活かして企業や教育現場でのワークショップに取り組む「マザーアース・エデュケーション」の松木正さんのワークショップについて紹介した。

ネイティブアメリカンのスウェットロッジ体験①:他者に自分の夢の続きを見てもらう「ドリームワーク」

今回は、その続きを書きたい。


このワークショップのメインイベントは「イニィピー」。英語で「スウェットロッジ・セレモニー」(「汗の小屋)と呼ばれる儀式だ。

ドーム状に作ったテントの中央に真っ赤になるまで焼いた石を入れ、水をかけ、水蒸気でスチームサウナのような状態を作り出す。もっとも暑いときは100℃以上になるという。

このスウェットロッジについて、初めて耳にしたとき「これってつまり、一種の苦行のようなものなのかな?」と思った。

日本の神道や仏教を含め、多くの宗教の修行には、「苦行を通して己を清め、生まれ変わる」という側面がある。

実際、スウェットロッジも、「生まれ変わり」を象徴する儀式なのだという。真っ暗なテントは母親の子宮で、すさまじい暑さは陣痛時に幼児が受けるショックを模しているということだ。

ただ、「スウェットロッジ」に関して話を聞いた中で、個人的にもっとも印象的だったのは、一見苦行のように見えるこの儀式が、実は「弱さや苦しさを吐露できる場所」だということだ。

スウェットロッジは3時間ほど続く儀式だが、その中に祈りのセクションがある。

「祈る」といっても、ここでは高尚なことを願う必要はない。むしろ、自分が抱えている問題を”ぶちまける”感じでいいそうだ。

(松木さんの著書『あるがままの自分を生きていく〜インディアンの教え』には、儀式中、いかつい顔をしたネイティブアメリカンの男たちが、「辛くて辛くてたまらない」と泣き叫ぶ様子が記されている。彼らは、儀式の後、とてもすっきりした顔をしていたという)

ネイティブアメリカンは、白人の侵略によって生活の場も文化も根こそぎ奪われ、白人との同化政策を強制された悲しい歴史を背負っている。

その傷は深く、現在も、居留区には貧困にあえぎアルコールやドラッグの依存症になる人も多いという。

そうした中で、「スウェットロッジ」は一部のネイティブアメリカン(ラコタ族)によって、白人から隠れて細々と続けられてきた。

彼らが抱えている大きな悲しみやストレスを吐露できる場としての、深い意味を持っていたということだ。

「暑い」を通り越して「焼ける」感覚だったスウェットロッジ

スウェットロッジの小屋の内部

今回のワークショップでは、昼から夜にかけて、前述の「ドリームワーク」を含むさまざまなワークを実施した。

スウェットロッジが始まったのは、ちょうど日付が変わる夜の12時頃からだった。

スウェットロッジに使う石は、合計60個ある。約3時間に及ぶ儀式中、これを4回に分けて入れていく。

数時間かけて炎で熱された石は、太陽を思わせるまばゆい紅さを放つ。儀式のはじめには15〜16個の石が運び入れられるが、この時点で全身に汗がにじんでくる。

この石に水をかけ、「ジュッ」と音がすると、一気に小屋の空気は100℃近くまで急上昇する。

このときの感覚は、「暑い」というより「焼かれている」と言う方が近い。自分の全身が炎にあぶられているようで、特に耳のあたりが痛かった。

すさまじい量の汗が出て、自分の履いていたハーフパンツは海に浸かったようにぐっしょりとなった。

(最後の方は、もはや自分が失禁しているのか、汗で濡れているだけなのか、区別がつかなかったほどだ)。


スウェットロッジ中に起きた頭痛

小屋の前には、ネイティブアメリカンにとって神聖な動物であるバッファローの頭蓋骨が置かれる。その前には、参道を形作るように、小石が並べられる

ただ、本当に苦しかったのは、暑さよりも、併発した頭痛だった。

(ここから先は、スウェットロッジで一般的に起こる現象というよりも、筆者の個人的な事情にもとづく体験として読んで頂けるとありがたい)

僕はもともと頭痛もちだ。大学生のころに脳を酷使して以来、疲れるとすぐに頭痛が起きるようになった。ヨガや瞑想によってだいぶ改善したものの、少し疲れると頭が重くなるのは今も変わらない。

スウェットロッジ当日は、少し睡眠不足だったことも影響したのだろう。儀式の半分が過ぎたくらいから、頭痛が始まった。

(残念なことに、自分の弱さを吐露できる祈りのセクションの後だった)

まるで脳内の血管が詰まったように頭が重たくなった。じっとしていられず、何度も頭を上下させ、「アー」「ウー」と呻き声を漏らした。

「スウェットロッジ中は、失神した方が安全」という人もいる。100℃くらいで人は死なないので、むしろ失神していた方が余計な体力を使わず、危険が少ないという。

だが、自分は頭の痛みに付きまとわれていたので、失神することもできなかった。


もっとも、繰り返しになるが、「スウェットロッジ」は、苦行や我慢大会ではない。

スウェットロッジの途中、数度にわたって、外気に当たったり、水を飲んだりできる休憩時間がある。このとき申告すれば、長めに休憩を取れるし、水も好きなだけ飲める。

(ちなみに、松木さんは10年以上、スウェットロッジのワークショップを日本でやっているが、病気になった人は今までいないという。)

そのため、なんとか3時間の儀式をやり遂げることができた(終わったときは脱塩症になっていたようで、小屋を出た後、ドアを開こうとしただけで、腕がつった)。


弱さとコンプレックスの原因である頭痛

この紅い布の中に、自分の祈りを込める

頭痛は、自分のコンプレックスの原因の一つだった。

身体の痛みに関しては、「心頭滅却すれば、火もまた水のごとし」といった状態になるかもしれない。だが、頭痛が起きて、脳が破裂しそうになると「このまま脳梗塞で死んでしまうのではないか」という恐れが起こる。

この恐怖心のため、自分はだいぶ「根性なし」になってしまったと思う。

その負い目のためか、自分より気力があって仕事もできる人を見ると、弱い自分を呪わしく感じることが多かった。


今回のスウェットロッジは、自分を含めて10数人が参加したが、女性の中には今回の経験を楽しんでいた人もいた。

他の参加者にも、特に頭痛で苦しんだという声はなかった。「やっぱり自分は、頭痛のせいで他の人と同じように振る舞えないんだな」と、また劣等感を覚えた。


弱さとともに生きる?


前述のとおり、スウェットロッジは「生まれ変わり」を象徴する儀式なので、参加する前は、「これをやれば、何か新しいビジョンが見えるのではないか」と期待していた。

でも、そんなことはなかった。不完全燃焼感を残したまま、ワークショップは終わり、帰路についた。

帰りの電車の中でも「今回の体験にはどんな意味があったのだろう」と考えてみたが、「正直、何も分からなかったな」と、半ば自分にがっかりした気持ちを覚えた。


だが、家に着いてシャワーを浴び、ちょうど寝ようと布団に横になったときのことである

「この頭痛と一緒に生きるのが、自分の”あるがままの姿”なんだろうな」という考えが、ふっと心の中に浮かんできた。

考えてみれば、今までヨガや瞑想についても「早くこの頭痛が治ってくれ」と思いながらやることが多かったが、「自分は、無意識のうちに、頭痛を”敵”だと見なしていたんだ」と気付いたのである。


今も「できるものなら頭痛をなくしたい」という思いが消えたわけではない。

ただ、ワークショップから一週間後の日曜日、ヨガのクラスでシャバアーサナ(休息のポーズ)をやったときのことである。

この時も軽い頭痛があったが、ヨガマットの上に寝転びながら、ふと「頭痛さん、分かった、オレもキミと一緒にいるよ」と呼び掛け、自分が「頭痛さん」と一緒にいるシーンを想像してみた。

(「頭痛さん」をイメージしてみようとすると、なぜか、イガグリ頭のガリガリ君のような姿になった)

最初はなんの変化もなかった。頭は重たいままだった。

ただ、イメージを思い浮かべ続けているうちに、脳の奥にあるしこりが徐々に薄まっていった。

ちょうど眠りに入りかけているところで、レッスンの終わりを告げるティンシャ(鐘)が鳴った。

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