ネイティブアメリカンの叡智を生かした松木正さんのワークショップ
5月11〜12日、千葉県茂原市にあるフリースクール「千の葉学園」で、あるイベントに参加した。このブログで何度か書いたが、ネイティブアメリカンの教えを活用し企業や教育現場の研修を手がける団体「マザー・アース・エデュケーション」の松木正さんによるワークショップだ。
主体的に生きること:ネイティブアメリカンの教えから
「うまく言葉にならない感覚」を通して、自分らしい生き方を見つける:松木正さんと内田樹さんの話から
「自分らしい生き方ってなんだろう」と考える中で、最近は「思考以前の感覚」に意識を向けることが大事だと思うようになった。
思考とはすごいもので、言葉の使い方しだいで「黒を白と言う」ことも可能になる。
だから、例えば「社会にニーズのある」ことを、あたかも「自分が本当にやりたいこと」のように自分を納得させてしまうこともできる。
でも、結局、自分の奥底にある欲望を抑圧した状態であるのは、長続きがしない。
自分は20代のころ、それで失敗したし、社会的に見ても、たとえば20世紀の社会主義革命の失敗というのは、そういうものなのではないかと思う。
むしろ、自分や他者の奥底にある欲望をいったん、正直に見つめたうえで、それを"昇華”するような形で何かをやったほうがいい。
マザー・アース・エデュケーションのワークショップでは、「言葉になる前の感覚」を大切に捉える手法を活用している。
これを使えば、より自分の奥底にある欲望の正体を深く見つめることができるのではないか。
そんな関心から、今回のワークショップに参加することにした。
今回のワークショップのタイトルは、「あるがままの自分を知る新体験ーネイティブアメリカンのスウェットロッジ体験」。
「あるがままの自分を知る」というテーマのもと、「スウェット・ロッジ」と呼ばれるネイティブアメリカンの儀式や、キャッチボールを通したコミュニケーションのワークショップなど、2日間で多くの経験をさせてもらった。
今回は、そのうちの一つ、「ドリームワーク」について紹介したい。
ネイティブアメリカンのシャーマン文化に基づく「ドリームワーク」
「ドリームワーク」とは、人が寝ているときに見る夢の内容に光を当てることで、潜在意識の中にひそむ欲望や恐れの正体を探るものだ。
科学的にみると、夢とは、自分が過去に体験したものを、睡眠中に脳が整理する作用らしい。
いわゆる「夢占い」が本当に有効なのかは分からないが、少なくとも、個人の心の問題を探るうえで、夢を考察するのは、かなり効果的な方法だと思える。
夢から個人の在り方を考察する、というと、(僕は直接受けたことがないけど)夢の内容から潜在意識の欲望をさぐるフロイトの「夢分析」が思い浮かぶ。
だが、松木さんのワークを受けてみて、1つ驚いた点がある。
それは、「パートナーに、自分の夢の続きを見てもらう」ということだ。
「ドリームワーク」は、2人1組のペアワークとして実施する。
最初に、互いに最近見た夢の内容を話す。
聞き手は相手の話を傾聴するとともに、夢を鮮明に思い出せるよう質問をしたりするなど、適宜サポートを行う。
互いに夢の内容を話し終わった後は、寝ころんで身体の力を抜くリラクゼーションのワークを行う。
「力を抜くワーク」というと、想像がつきにくい人がいるかもしれないが、「右腕にぎゅうっと力を入れてから、ストンと抜く」といったことを身体全身で行うものだ。
(マインドフルネス瞑想の「トータルリラクゼーション」や、ヨガの「ヨガ・ニードラ」とほぼ同じものである)
リラックスのワーク中は、そのまま寝てしまっても構わない。ただ、一つだけやらなければならないことがある。
それは、「相手の夢の続きを見る」ということだ。
「相手の夢の続きを見る?そんなことできる訳ないだろ」。ワークショップでこのようにインストラクションされたとき、思わずそう思った。
ただ、これは実際に睡眠の中で夢を見るというよりも、相手の話を聴いて自分の中に浮かんだイメージに意識を向ける、ということで良いらしい。
リラクゼーションが終わった後は、ふたたびペアで、互いにどんな夢を見たかを共有する。
ネイティブアメリカンの場合、古代から、シャーマンが媒介になることで、夢を通して個々人の生き方を考える技法を培ってきたらしい。
「パートナーに、自分の夢の続きを見てもらう」というのは、この「シャーマン」の役割を現代的な形にアレンジしたもののようである。
「ドリームワーク」で話した破滅の夢
今回のワークショップには、10人強の参加者がいた。僕は、ある女性とペアを組んだ。
正直なところ、最近は記憶に残るような夢を見ていないため、「いったい何を話せばいいんだろう」と困惑した。
そこで、気が進まなかったが、昔からよく見る夢のパターンの一つを話すことにした。
このような内容だ。
夢の中で、僕はオフィスのような場所にいる。周りでは同僚が忙しく立ち働いている。活気のある職場の雰囲気だ。
その中で、僕は孤立と焦りを感じている。なぜなら、僕は取り返しのつかない罪を犯し、それを隠しているからだ。
(どんな悪いことをやったかは全く分からない。ただ「取り返しがつかないことをした」ということだけは分かっている)
心の中で冷や汗をかきながら、同僚に作り笑いをし、必死に自分を取り繕っている。
そこで場面が切り替わる。
自分は大学かどこかで、前に片思いで好きだった女性と向かい合っている。
本来であれば、甘酸っぱいシチュエーションなのだろう。でも、「世間さまに顔向けできない罪」を負っていることを自覚している僕は、相手との間に、見えない壁を感じている。
「彼女たちの住んでいる世界から、自分は断絶されてしまった」
「誰かと一緒に生きるような幸せは、もう一生得られない」
胸の内側から、にぶい熱さを伴った苦しみがせり上げてくる。
その後、場面は、自分が子どものときに住んでいた住宅街や、今の住居の近くに切り替わる。
いずれにしても、最後は「もう逃げられない」と追い詰められたところで目が覚める。
ファンタジー系のアニメやマンガでは、よく「世界が破滅する」というシチュエーションが描かれる。
ただ、僕の夢は、皆が同じような生活を続ける中で、自分だけが切り離され、取り残され、隔絶され、破滅していくというストーリーだ。
フランツ・カフカの小説『審判』に、「身にまったく覚えのない罪」によって逮捕され、孤独と恥辱の中で死んでいく主人公が登場する。この小説を読んだとき、「自分と同じように感じている人がいるんだ」と、少しだけ慰められたのを覚えている。
正直なところ、この話をするのは嫌だった。
あまりにもストレートに自分の恐怖心が具現化したような内容で、自分でも話していてバカバカしい気分になるし、ワークショップが始まったばかりのウキウキした空気の中で、こんな暗い話は場違いのように思われたからだ。
ただ、ほかに思い出せる夢がないので、しぶしぶこの話をすることにした。
「ドリームワーク」の後に生まれた"暖かい”イメージ
話が終わった後、僕たちは、寝転がってリラクゼーションを10分程度行った。
それから、僕のペアである女性は、僕の夢の続きとして思い浮かんだイメージを教えてくれた。
(きっと僕を励まそうと、”おためごかし”に明るい内容をでっちあげるんだろうな。他人のネクラな話って、聴くと気まずい気分になっちゃうしね)
そんな皮肉な思いが浮かんでは消えた。"斜に構えた”気分で、僕は彼女に向き合った。
彼女は、呼吸を整えてから、内省するように少し下を向いて話し始めた。
「まずは、オフィスの中にあるカプセルみたいなものが、バリバリ割れるのが思い浮かんだ」
「その後、自分の中から、ぐわーと、何か強い感情が噴き出してくるように感じた」
その言葉を聴いたときに、ふと、自分の中で何かが揺れるのを感じた。
そして、彼女に尋ねてみた。
「その感情って、どんな色ですか?紅い色、みたいな感じですか?」
(なぜ色について尋ねてみたくなったのか、自分でもよく分からない。ただ、彼女の言葉を聴いたとき、自分の中で、カンディンスキーの抽象画のような”色”のイメージが生まれたのだ)
彼女は、またしばらく思いふけるような姿勢を見せた後、「うーん、色のイメージはうまくわかなかったんだけど、なにか、オフィスの中の空気がそれによって、キラキラする感じ」と言った。
自分の中のイメージが、さらに変化していった。
「それって、冷たいオフィスの空気に”体温”が宿るような、そんな感覚ですか?」と尋ねた。
彼女は、また少し間を置いてから「そんな感じかも」と答えた。
短い言葉と、少し長い内省の時間。
「どうせ、無理に明るい内容をでっち上げるに決っている」という皮肉な感情は、その間に薄まっていった。
彼女の言葉、彼女の僕に話しかける姿勢や声音。そんなものを聴いている間に、空気が暖かさを帯びるような感覚があった。
彼女は、僕とまったく違うイメージを思い描いている。彼女は、別の意識をもち、別の世界観の中に生きている人間だ。
それは明白なのに、そのとき、なにか不思議な大きなものに、自分たちが包まれているような感覚があった。
「他人と距離をとる」性格と「あるがままの自分」
自分は、他人と一緒に仕事をしたりするのは割と好きなほうだ。ただ、プライベートでは、他人とそれなりに距離を取るタイプだと思う。
例えば、多くの人に対して自分は敬語を使っている。なかなか"タメ語”を使う関係にはならない。
「相手に失礼になりたくない」ということに加え、「相手に対して距離を取りたい」「自分に近づかれたくない」という動機も、潜在意識の中にあるのだと思う。
「まあ、自分ってそういう性格だよね」くらいで片付けていたので、それについては、それほど問題だと思っていなかった。
今回のように、「(自分の外にある目標に向かって)他人と一緒に何かする」のではなく、「他人に、自分の人生の一部を思い描いてもらう」というのは、初めての経験だった。
このときのことを思い出すと、今も夢の中にいるような気分になる。
ワークショップが終わった後、自分からお願いして、ペアを組んでくださった方の手を握らせてもらい、その暖かさを確かめさせてもらった。
正直、この体験が、自分にとってどういう意味をもっているのか、いまだに解釈ができない。
ただ、たぶん、今後の「あるがままの自分」として生きるうえで、他人との間でなにかしら「暖かい関係」を作り出すことが、目ざす方向なのだという気がしている。
(単に、他人とベタベタするのが「暖かい関係」ではないと思うので、これが結局何を示しているのか、もう少し探る必要があるのだけど)
次回、今回のワークショップの本題であるネイティブ・アメリカンの儀式「スウェットロッジ」について書こうと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿