失うことを恐れない:安達茉莉子さんの個展『言葉をなくしたように生きる人達へ』に行って

2018年5月1日火曜日

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先日、河瀬直美さんが監督を務めた『光』という映画を観た。

これは、盲目の方々のために映画の音声ガイドに取り組む女性の物語だが、この中に、視力を失い仕事を辞めざるを得なかったカメラマンが登場する。

永瀬正敏さんが演じるこのカメラマンからは、「本当に大切なことを諦めなければいけない苦しみ」が深く伝わってきて、観終わった後、自分の中に重たいものが残った。

僕たちの多くは、無意識のうちに「この能力があることこそ、自分が自分であるということだ」と感じているのではないかと思う。

(ピアノが弾けるピアニストといった一部の業種に限られる話ではなく、例えば、良い企画を立てられることに自信を持っているビジネスマンなども含まれる)


それがある日、怪我をしたり、過労などで脳に障害を負って、その能力がなくなってしまったら、どうしていいか分からなくなる。そんなことがあるのではないかと思う。

(僕は子どものときから目があまり良くなかったが、「自分が失明して、本を読めなくなったら、自分の生きがいがなくなってしまう」とよく恐れていたものだ。)

音信不通だった友人が開いた個展

3カ月ほど音信不通だった友人が、4月半ばに個展を開いた。

安達茉莉子。僕の大学の同期で、現在はイラスト詩集や映像をつくるアーティストとして活動している。

このブログでも昨年、インタビューという形で一度、紹介させてもらった。

「ここであれば生きていける」という世界を創りたい:作家・安達茉莉子さんに聞く

 アーティストというと、周りの人たちに自分の作品を知ってもらってナンボだ。

そんな仕事をしている人間がFacebookに何もアップしないので、「どこかで野垂れ死してるんじゃないか」と、ちょっと心配になっていた。

そんなわけで、彼女から個展のお知らせが届いたときは、まず、ほっとした。

同時に、なぜ音沙汰がなかったのかが気になった。

そんな疑問も携えながら、先々週の日曜日、個展の会場である荻窪の「本屋title」を訪れた。

言葉を捨てたように生きる人々と触れ合って

 彼女は、昨年の11月に「消えそうな光を抱えて歩き続ける人へ」という個展を開いた。

その作品の制作に全力投球した後、彼女は燃え尽き症候群のようになり、自分の内から言葉が出てこない状態に陥っていたらしい。

そんな自分に気付いた彼女は、あえて「言葉を書くことをしばらく止めてみよう」と決心したという。

今回の展示『言葉をなくしたように生きる人達へ』は、そんな期間を経て、制作されたものだ。

(展示と合わせて、同タイトルのイラスト詩集の発表されている)



『言葉をなくしたように生きる人達へ』で描かれているのは、こんな物語だ。

主人公は言葉を書く仕事を生きがいとしている作家。彼は、「生命の前でも虚しくないような言葉」を書きたいと切望している。

しかし、そんな言葉が彼を訪れることはなく、周りの人々も「つまらない」と言い出す。

彼は、言葉を捨てて、旅に出る。

彼は、スケートボードや踊りを通して世界の美しさに触れ、生命の美しさを垣間見せてくれる人たちと関わるようになる。

その中で、彼はこう思う。


「本当はもう
僕は言葉を必要としていないのかもしれない
生命に圧倒されて
こんな風に毎日を生きられるのであれば
それだけで本望なのかもしれない」


だが、ある日、彼が仲良くなった女の子は、踊りを止めてしまう。


「彼女はダンスをやめていた
踊れなくなってしまったと言った
やめたわけは聞かなかった

彼女の中で何か大切なものが
ただ終わってしまったことだけわかった

言葉を本当に失った僕に
差し込んでいた
光が消えてしまったような気がした」

しかし、その「光が消えてしまったような」まさにその瞬間に、主人公は再び言葉を書けるようになる。


「そして皮肉なことに
光が消えた
その瞬間に
言葉がやってきた」


「中身ではなく、器こそ自分」


 展示会場には、作者の安達茉莉子さんの後書きも掲載されていた。

そこには、言葉を書けなくなった時期について、このような気づきが記されていた。


「自分の中にある水こそ、自分自身だと思っていた。
だから、その水を抜いてしまえば、自分もなくなってしまうのだと。
しかし、言葉をなくしたように生きてみてわかったのは、
自分というのは水ではなく、器の方だったということだ」

(これは彼女の言葉そのままでなく、僕が記憶をたどって書いたものだ。正確な言葉をメモしそびれてしまったことをお詫びしたい)

失うことを恐れない

じつは、彼女の個展を見てとき、「なんだかよく分からない話だな」と困惑を覚えた。

自分の中に、なんとなく響く部分はある。しかし、それが何なのかが分からなかったのだ。


そんなもやもやとした感覚を少し整理できた気がしたのは、先日の瞑想会に参加した後だ。

【今週の感謝】新緑に包まれて瞑想をして

プラムビレッジから来たお坊さんは、「私達は、私達以外のものからできている」と言い、「今、ここで話しているのも、私が今朝食べた米粒なんです」と少し冗談めかして語った。

この話を聞いたとき、ふと、こう思った。

「僕たちが書く言葉も、世界のさまざまなものと響き合う中で、生まれてくるものだ。だから、僕の言葉も、「僕の」なんて言えないのかもしれない」


『言葉をなくしたように生きる人達へ』の末尾では、言葉を再び書けるようになった主人公の、このような気付きが記されている。


「光が消えてしまったなら
そこから生まれてくるものが
必ずあるから」

主人公は言葉を書けなくなった。

彼の友人は踊れなくなった。

でも、それは、なにかが「空っぽ」になってしまったわけではない。失ったものの中に、何か新しいものが流れ込み、生まれているということなのだ。

そのことに気付いたとき、ふっと、「失うことを恐れなくてもいいのかもしれない」と、思った。

自分のキャリア、自分の能力、自分の社会的地位。

そうしたものがあるから、自分は今、社会の中で、一つの歯車となり、安定していることができている。

そのことは必ずしも悪いことではない。

でも、人生には、否応なしに、そうしたものが奪われることがある。

だから、奪われないように、汲々とする。

でも、そうした恐怖から、もっと自分を解放してもいいのかもしれない。


こうして書きながら、「自分は、まだそうした恐怖から解放されていないな」と感じる。

ただ、いつか、そうした境地を自分も理解できるようになるかもしれない。その途中経過の記録として、ここに今感じていることを記しておきたいと思う。

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