「今ここで話しているのは、実は、ご飯粒なんです」
木々を揺らす風が、潮騒のように響いた。木陰の下に座っていると、緑の海にやさしく包まれているようだった。
そんな穏やかな空気の中、その尼僧は、ふわりと微笑んだ。
「私は今朝、お米のご飯を食べました。ここで今、このように語っているのは、そのお米が作ってくれた身体です。だから、こうやって喋っているのは、その一つ一つのご飯粒だと言っても過言ではありません」
若者向けの特別イベント
昨日、東京の石神井公園で、マインドフルネス瞑想に関連するイベントが開催された。
マインドフルネス瞑想には複数の流派があるが、僕が通っている瞑想会は、ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハン師がフランスや香港、タイなどに開いた「プラムビレッジ」という仏教コミュニティが中心となっている。
このゴールデンウィークは、このプラムビレッジから数人のお坊さんが訪日して、瞑想に関するさまざまなイベントを開催中だ。
(マインドフルネス瞑想はもともと仏教徒が活用する修行法の一つだが、近年、企業のリーダーシップ研修をはじめ、幅広い分野で応用が試みられている。そのため、例えば今回は、教育や医療関係者に向けたイベントも開催される)
その一環として、昨日は特に若者向けのイベントが開催された。
食事は宇宙につながる神聖な営み
この日参加した20〜30人のほとんどは、初めてマインドフルネス瞑想に触れる人たちだった。
そのため、ファシリテートしてくれた5人のお坊さんたちは、簡明な言葉を使って、瞑想の要点を教えてくれた。
その一つが、お昼前に行った「食事の瞑想」である。
僕たちは、準備してきたお弁当を前に置き、お坊さんの語る説法を聞いた。
「私たちの食べるこのお米は、様々なものとのつながりの中に存在しています」
「このお米の中には、稲を育てた農家の人や、土、土の中にいる虫、太陽、雨が含まれています」
「初めて稲のもととなる植物を発見した人、栽培する方法を発見した人など、私たちの祖先の努力も含まれています」
「さらに、トラックのドライバー、スーパーマーケットで働いている人など、私たちのもとにこのお米を届けてくれた、様々な人の努力も含まれています」
「食べることは、この宇宙のすべてとつながる神聖な営みなのです」
(このお坊さんが言っていたわけではないけれど、この話は、炭水化物を形成している炭素や酸素原子が誕生した際のビックバンといった、宇宙全体の営みにまで広げて考えられるだろう。先日亡くなったスティーブン・ホーキング博士に関する記事を読んでいたとき、「宇宙のはじめには、原子を含む物質は存在しなかった」という学説を知った)
その後、僕たちは約20分間、言葉を発することなく、ただ食べることに集中した。目の前の食べ物につながる様々な存在を想像しながら。
(ちなみに食べ始める前、「食べることを深く感じるために、できるだけ1口30回は噛みましょう」と言われた。)
「ふだんの忙しい中では、20分間の食べる瞑想は難しいかもしれない。でも、1日5分でもやってみたら、きっとあなたは変わると思います」
食事が終わった後、ファシリテートしてくれた尼僧は、そのように述べた。
場を主催してくれる人の、陰の努力
この日、僕はボランティアとして関わった。
ボランティアといっても、「当日、なんか手伝えることがあったら、手伝いますよ」といった感じで、朝、少し早めに来て参加者を出迎えたりした程度なのだが、ここで、ちょっとしたことがあった。
集合時間の少し前。すでに10数人が集まってお喋りをしていたとき、1人のお坊さんが来て、「ほかの人が来るまでの間、歌を歌いましょう」と言ったのだ。
(プラムビレッジには、「歌う瞑想」というプラクティスがあり、場面に合わせた様々な曲が存在する)
ところが、そこにいたのは、今回初めて瞑想会に参加する人たちばかりで、曲をまったく知らない。
しかも、僕も曲の歌詞を覚えていないので、彼らに伝えることができない(音痴なので、メロディーもうまく伝えられない)。そんなわけで、座が盛り上がらない。
さらに、僕はこのお坊さんの通訳をしようと試みたのだが、彼が英語で何を言っているのかが聞き取れなかった。
(後で落ち着いて話してみると、それほど聞き取りづらい英語ではなかったが、初めてで緊張していたようだ)
「いやー、まいったな。どうしよう」と、自分の中に焦りが生まれているのを感じた。
その後、すぐに他のお坊さんと、通訳ができる瞑想会の先輩メンバーが来てくれたので、なんとかなったのだが、改めて感じたのは、こうした場のファシリテートの難しさと、先輩メンバーたちの尽力である。
場をつくるというのは、陰で多くの準備が必要だし、当日の段取りも含め、ファシリテーションの技術も必要となる。
自分がこの場で、瞑想を学ぶことができるのは、多くの人たちの努力の賜物だと、改めて感じた。
これは、瞑想会に限った話ではないだろう。
学校や職場、日常生活で活用しているサービスに関しても、その場を自分に先んじて作ってくれている人がいるから、自分は学び、仕事し、サービスを享受できる。
自分という存在は、他の様々な存在に支えられ、成り立っている。
その有り難さを深く感じることができた、新緑の一日だった。
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