【今週の感謝】「あなたはもう悪や闇と闘わなくていいんじゃないですか」

2018年4月22日日曜日

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「●●さんは、もう悪や闇と闘わなくてもいいんじゃないですか」

数日前の夜。JR秋葉原駅の近くで友人と会った。

彼女とは1年ほど前、新潟で知り合った。ヨガなどに関して話が合って、それ以来、Facebookを通じてやり取りをさせてもらっている。

今回は彼女が用事で東京に来るということで、一緒にお茶をしようということになったのだった。

彼女は、ヒーリング関係の仕事をしており、お茶話の流れから、今の僕の状態も観てもらうことになった。

その際、心に深く残る指摘をしてくれたので、記録しておきたいと思う。

(なお、彼女はより抑制的かつ表現豊かな言葉を使っていたが、自分の記憶力では再現が難しいのと、プロの仕事に関して詳細を書きたくないこともあり、これは僕の中で再構築した「自己内対話」のようなものと思ってもらえると幸いである)

悪や闇を憎む心が、悪や闇を生み出す

「●●さんは、たぶん、子どものときから、『悪や闇と闘わなければ』という意識があったんじゃないですか。」

最初に、彼女はそう指摘した。

前にこのブログで書いたことがあるが、僕は子どものときから政治的・社会的な問題に関心があった。

振り返ってみると、小学生くらいのときでも、テレビで社会不正に関する番組やニュースを見ると、激しい怒りがこみ上げてくることが多かった。

政治とはさみしいものである

彼女は、「その要因の一つは、子どものときに自分より大きな子どもにケンカで負けて、激しく自尊心を傷つけられる経験があったからかもしれない」と指摘した。


そのうえで、

「●●さんの場合、『悪や闇とたたかう』と言っても、とくに『自分の”内なる悪や闇”と闘わなければ』という意識が強いんじゃないですか」

と述べた。

これも、心当たりがあることだった。

子どものとき、貧しい開発途上国の話を聞くたびに、「自分の住む日本はこれほど豊かなのに、なぜ世界には飢える国があるのか」と疑問だった。

そして、ほぼ直観的に「それは、日本を含む豊かな国が、貧しい国の人や自然を搾取しているからではないか」と思い、罪悪感を抱いた。

自分の心の中をのぞいてみると、実際、「地球環境がどうなろうが、遠方でどれだけ人が飢えていようが、自分が幸せであればいい」「何を犠牲にしても、オレの欲望を満たしたい」という感情がある。

そうした経緯から、「自分自身の問題も解決できないのに、世界の問題を解決できるわけがない」と思うようになった。


しかし、彼女はさらに僕に問うた。

「でも、そうやって悪や闇と闘い続けることで、何か得たものはありましたか?」
「これからも、悪や闇と闘いつづけなければ行けないと思いますか?」

(「悪や闇と闘う」という意識がなければ、自分は世界でひどい目に会っている人たちに対して、無関心になってしまうのではないか・・・。それは、よくないことのような気がする)

(でも、「悪や闇と闘う」という意識があったところで、自分が果たして、周りの人に優しくできたりしたことがあっただろうか・・・)

(むしろ、「悪や闇と向き合っていないと、生きている充実感を得られない」といった、個人的な問題なのかもしれない・・・・)

彼女は、

「これ以上、悪や闇に執着しなくてもいいんじゃないですか?」

「『悪や闇と闘わなければ』という意識がある限り、あなたは悪を必要とし続ける。そうである限り、世の中から悪はなくならないのでは」

と、続けて語った。

そして最後に、「あなたがこれ以上、悪や闇との闘いで自分を苦しめなくてもいいように、怒りから解放されてソウルメイトに出会えるよう、無条件の愛を贈ってもよいですか?」と尋ねた。

悪や闇を憎まず、慈悲の心を向ける

今後も現実世界で、「悪」「闇」と感じることに遭遇するだろう。それが現実ってものだと思う。

そんな中で、「悪や闇と闘わなくていいのでは」と言う彼女の言葉の意味は、どこにあるのだろうか。

彼女と会った後、数日間そんなことを考えていて、ふと、以前、本屋で立ち読みした本を思い出した。

哲学者の内田樹さんと、精神科医の名越康文さんの対談『原発と祈り 価値観再生道場』(ダ・ヴィンチブックス、2011)である。


(これはちゃんと読んでいないので、以下は、チラ見したときに触発されて自分が考えたことと受け取ってもらえれば幸いである)

この本の中には、「原発に対して、鎮魂しなければならない」という指摘が出ていた。


原発は、かつては、「CO2を排出しない夢の未来のエネルギー」として期待されていた。

実際、原発の建設に関わった人や、維持管理をしていた人の中には、「地球環境を汚さず、人類を豊かにできる」ということに誇りを持っていた人も多くいるだろう。

東日本大震災の後、原発に対する批判が集まり、ときには悪の権化のように語られる中で、ふと、「かつて、そうした暖かい気持ちをもって原発に関わった人たちの思いは、どうなるのだろうか」という疑問が心に引っかかっていた。

(経済や倫理的な側面からの原発維持論と廃止論の議論ではなく、あくまで、自分の個人的な感覚だと受け止めてほしい。そうした側面での議論は、より精緻にすべきだと思うので)


そんな時、たとえ原発を廃止する方向に進む場合でも、「今までありがとうね。お疲れ様でした」といった、慈悲の気持ちで廃止を進める。そんなことができるのではないか。

友人の言葉を思い返す中で、ふと「原発を鎮魂する」というのが、そういう意味ではなかったかと、思ったのだ。


これはまだ自分の中で、消化しきれていない考えである。

でも、悪や闇に向き合うにしても、怒りや憎しみ以外の形で向き合うことができるのではないか。

彼女の指摘を、自分が十分に理解できたかは分からない。でも、いずれにしても深い気づきを与えてくれた彼女に、改めて感謝を捧げたいと思う。






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