【今週の感謝】「上手い」「下手」といった評価は相対的なものである

2018年4月15日日曜日

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4月9〜15日

友人からのコメント

 先日、Facebookで、「自分は話すのが下手だから、立板に水を流すが如くトークをできる人を見ると羨ましくなる」といった内容の投稿をした。

すると、ある友人から「私は、●●君ほど、本人の自己評価と私の評価が異なる人を見たことがない」といったコメントをもらった。


社会人になって仕事をする中で、「キミ、(営業などに関して)もっと話す練習しなさいよ」と指摘されることが多い。

実際、これまで自分より知識量がはるかに豊富で、話すのが上手い人に多く会った。そのため、「うまく話せない」というのは、自分の中でコンプレックスだった。

そうした中で、このコメントをもらったので、一瞬、「お前にオレの何が分かる」的な反発を感じてしまったのは事実である(コメントくれた方、ごめんなさい笑)。

ただ、この友人の指摘をよくよく吟味してみると、そこには深い真理があるように思われる。

同じコミュニティー内で「下手な人」がいるから「上手い人」も存在する


ちょうど今、このブログで何度か紹介しているベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハン師の「般若心経」に関する解説書(『ティク・ナット・ハンの般若心経』(野草社))を読んでいる。

(仏教の思想を分かりやすく、かつ日常生活から世界の問題にまでにどうやって生かすのかが書かれている本なので、いずれ別の機会に改めて紹介したいと思っている)

この中では、

「(政治的な)右派がいなければ、左派も存在しない」
「悪が存在するから、善も存在する」

といった、世界のさまざまな事象の相互依存的な関係について省察されている。

この本を読みつつ、数日前、ある人と一緒に食事をした。

その方は僕と同年代の男性だが、それほど話すのが得意ではないようで、会話は終始、僕がリードすることになった。

(まあ、僕が聴くのが下手で、その人の話を引き出せないから、僕のほうはかり話す形になった、とも言えるが)

そのとき、はっとした。

「弱い・強い」「うまい・へた」といった評価は、いずれも相対的な評価だ。絶対的にトークがうまい人がいるわけでも、絶対的に下手な人がいるわけでもない。

ある人が「上手」に見えるのは、つまり、その人が所属するコミュニティーの中に、「その人よりも上手くない人」がいるからである。

例えば、(たぶんプレゼン技術がうまい人がもっとも集まる業界だと思われる)コンサルティング企業の中では、「あいつ、マジでプレゼンテーション下手だよな」と言われている人がいたとする。

こうした人も、ふだんプレゼンといったことに縁のない仕事をしている人たちの間でプレゼンしてみたら、「この人、話すのめっちゃ上手いやん」と評価されたりすることもあるだろう。

そういう意味で、自分がコンプレックスを感じているのは、あまり意味がない。

(逆に、「オレってすごいよね」と優越感を感じるときは、「いやいや、別の場所に行けば、オレより全然すごい人は沢山いる。オレは井の中の蛙に過ぎない」と自分を見つめ直すような謙虚さも必要だろう)


これは、処世術的に考えると、たぶん、
「自分がどのように評価されるコミュニティーにいたいか」
「自分の力は、どのようなコミュニティーの中では、特に生かしやすいか」
といった話になるのだろう。

ここで書いているのは、言われると当たり前のことだと思う。

ただ、ふだんの生活の中では、つい忘れがちで、コンプレックスに捉われてしまうことが多い。(少なくとも、自分のことを振り返ると、そうなっている状態が多い)

率直な指摘をもらったおかげで、気付きを得ることができた。改めて友人に深く感謝したい。


※ちなみに、「悪と善は相互依存的な存在だ」というのは、現実にある課題を放っておいてよいという話ではない。

ティク・ナット・ハン師は、(互いが互いを「悪」だと言い合っている)米国とイランを例に挙げ、「どちらかを排除するのではなく、人類全体としてサバイバルできるよう働きかけることが必要」といった話をしている。

この話は、自分の中でまだ未消化の部分もあるので、もう少し考察を深めてから書きたい。


このことを書くので体力が尽きてしまったが、今週は、昨年5月に一緒に宮城県の南三陸町に行った友人たちと手巻き寿司パーティーをしたり、若い友人と飲みながら恋バナ(笑)したりと、楽しいことも多くあった。

異なる人と会うこと、異なる環境に身を晒すことは、新しい自分を見つけることでもある。

改めて、自分に関わってくださっている方々(人以外の存在も含め)に、深く御礼申し上げたい。

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