社会人になってからというもの、平日は会社と家を往復するだけの生活が続いた。
ただ、この4月は仕事に少し余裕ができたため、さまざまな場所に出かけたり、いろんな人と会ったりすることができた。本当に有り難いことである。
今週も、水、木、金と3晩連続で人と会って食事をした。
仕事だけでなくプライベートでも人と話す。そんな機会が増える中で改めて感じるのは、「他人との会話中、沈黙になるのが怖い」という感情が自分の中にあることである。
人と話をしていて、ふっと会話が途切れる瞬間がある。そんなとき、沈黙する相手の表情を見ても、何を考えているのか、何を感じているのか分からない。
「この人は、自分といて退屈しているのではないか」
「自分の発言が、相手に不快感を与えていないか」
「この人は、自分を見下していないか」
そんな不安が、無意識下でうごめく。
特にこれは、プライベートの、目的があるようでないような会話をするときに出てくることが多い。
(仕事に関する会話だと、「いかに正確かつ分かりやすく相手に伝えるか」、「いかに相手を思い通りの方向に誘導するか」、あるいは「いかによいアイデアを出すか」といった目的意識が常にある。沈黙の間も、いろいろと戦略を思い巡らせているため、こうした不安を感じることは少ない)
聴衆を無視して瞑想を続けたティク・ナット・ハン師
こうした自分にとって、今、読んでいる本で心に止まった箇所があったので、紹介したい。
「ティク・ナット・ハンというとても小柄な男が、ハーガースタウンのメリーランド刑務所にやって来た。私はこの男が足を組んで座る様子を、びっくりして見ていた。なぜ驚いたのかというと、施設内の講堂には、アメリカ全土や世界中から合計八十名ほどの招待客が来ており、さらに百二十人もの落ち着きのない受刑者たちが全員そろって彼の登場を待っているというのに、この男は皆を無視したのだ」
(『ティク・ナット・ハンの般若心経』、野草社、P260)
ティク・ナット・ハン師は、マインドフルネス瞑想を世界に広める立役者となったベトナム出身の禅宗の仏教僧である。
彼の最新の著作『ティク・ナット・ハンの般若心経』の中には、彼が1999年、米国の刑務所を訪れたときの講演録が入っている。
米国の刑務所がどのような環境なのかは、正確には分からないが、そもそも刑務所と言うもの自体、かなりストレスフルな場所だとは容易に想像できる。
そんな中で、講演を行う予定の男がいつまでたっても黙って座ったままだったら、聴きにきていた受刑者たちは、どう感じただろうか。
普段のイライラが募り、なにかの拍子でケンカなどが始まりはしないか、などと考えてしまうが、実際、しばらくすると、小言や不満の声が漏れ出したという。
「彼は穏やかに坐り、姿勢を変えたりしていた。そのまわりではスタッフが音響の機材を設置しようと、あわただしく動きまわる物音がして混乱していたのに、彼は気にもとめなかった。聴衆がひそひそ話をしたり、ぶつぶつ小言を言ったりしていたのに、それも耳に入らないようだった。まわりの者たちがかいがいしく世話をしても、まったく気にかけていなかった」
(同P260−261)
だが、ティク・ナット・ハン師が聴衆を無視して瞑想を続ける中、スタッフたちは落ち着いて、音響テストを納得いくまで繰り返したりした。そうこうしているうちに、会場のざわめきは徐々に小さくなっていったという。
「そして、彼が口を開いて話し出すよりも前に、私たちはもうとっくに彼に引き込まれていた」(同、P261)。
「自分がいる」という状態になる
この本の中には書いていないけれど、たぶん、スタッフたちは「講演時間になったのに、まだ準備できてないよ。どうしようどうしよう」と焦っていたのではないかと思う。
でも、ティク・ナット・ハン師は静かに微笑み、急かす様子もない。
そうする中で、「ここで安心していいんだ」という気持ちが生まれて、心が落ち着いてきた。そんなことがあったのではないかと思う。
一見、相手を無視しているように見えて、そうではない。
講演会という場にも関わらず、言葉ではなく、態度によって、その場にいる人の深い部分に働きかけること。
このことを考えていて、ふと、西村佳哲さんの『自分をいかして生きる』という本を思い出した。
デザイナーであり、「働き方研究家」でもある西村が、「いい仕事」とは何かを考えるこの小著は、個人的にとても好きな本だが、その中にこのような一節が出てくる。
「『いい仕事』とは、いったいどんなことを指すのか。これはなかなか言葉に出来ずにいた。今はこう思う。僕が魅力を感じ、満足を覚えるのは、「いる」感じがする仕事である」
「真夜中の道路工事現場で交通整理をしていた、あるおじさんの礼儀正しさに心を打たれた時のこと。隅々まで手の入った庭へ足を踏み入れた瞬間の、ハッとする気持ち。」
「思わず背筋が伸びて、少し呼吸が深くなるあの感じは、その仕事をなしている<存在>を目撃した自分の<存在>が、より生きることに向かって身を整えた、小さな反応なのだと思う」
(『自分をいかして生きる』、ちくま文庫、P39、44)
たぶん、ティク・ナット・ハン師の、一見他人を無視しているようで、聴衆が静かになっていった、ということも、この「自分がいる」という存在感がなせる技ではないかと思う。
自分のコンプレックス
自分の他者と会話をするときに感じる不安は、たぶん、自身に対する自信のなさから来ているのだと思う。僕は、子どものときから、芸能人や流行の話題について疎かった。覚えようとしても、ほかに興味のあることにエネルギーがいくので、ちっとも覚えられなかったのだ。
(芸能人の名前を覚えることは、世界史や日本史を勉強するより難しかった)
で、自分が興味あることというのは、だいたい、他の大多数の人にとって興味がないことだった。
(たとえば、自分が今やっているヨガなどの話にしても、大体の人とは「へ〜、男でヨガやってるんですか。変わってますね」で会話終了となる)。
そんなことから、自分の潜在意識には「自分は、だいたいの人にとって、つまらない人間である」という感覚が、染み付いているのだろう。
(そのせいか、他人と話すときは、全般的に、自分が話すよりも質問する方が好きである)
でも、聴衆を無視して座禅を続けたティク・ナット・ハン師のように、たぶん、存在感とは、「他人から認められる」「認められない」以前にあるものなのだと思う。
いまの時点で、自分の心の中にあるコンプレックスをすぐに無くせるものでもないと思うが、なにか、ハン師の在り方や西村さんの考察を基に、もっと深く物事への態度を培っていけないものかと思っている。
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