「うまく言葉にならない感覚」を通して、自分らしい生き方を見つける:松木正さんと内田樹さんの話から

2018年4月7日土曜日

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先日、このブログで、ネイティブ・アメリカンの教えを生かして企業・学校研修に取り組む松木正さんについて書いた。

主体的に生きること:ネイティブアメリカンの教えから

 彼の話で特に印象的だったのは、「うまく言葉にできない感覚に向き合うことの大切さ」だったが、昨日、異なる角度から同様のことを語っている記事を見つけた。

言葉の生成について

 これは、哲学者の内田樹さんが、教育について語った講演録だ。内田さんの語っていることも刺激的な考察が多いので、松木さんの話と合わせて近いうちに感じたことをまとめてみたいと思っている。


ただ、正直なところ、「自分の中にある、うまく言葉にならない感覚」に向き合うのは、けっこうしんどい作業だ。

「自分はそもそも何を感じているのか」と、じっと自分の体や脳内の反応に意識を向ける。

そして、「ああでもない、こうでもない」と、自分の人生の経験や持っている語彙を総ざらいするような感じで、それに当てはまるような感覚を探っていく。それでも、ぴったりした言葉が見つからないことが多い。

(自分がこれをやるときは、だいたい、カフェで1人で目を閉じて、瞑想するみたいにやっているが、疲れて途中で嫌になってくる)

それでも、やったほうが良いと思っている。なんでこんなことをやる必要があると思うのか。自分なりに考えてみた。

自分に向き合うこと


世の中の事象を見るとき、「テンプレワード」に当てはめると、考えるのが楽になる。

例えば、女性と付き合わない男性を見たら「あー、草食系男子だ(笑)」というように。

それで、世間的に「●●は変な人」というイメージが付いている場合は、「だからAちゃんって変なヒトだよね」と結論を出して、「ハイ、おしまい」とできる。

ただ、「女性と付き合わない男性」と言っても、ちゃんと見てみると、それぞれの人が抱えている事情は、実に多様だ。

先日読んだ、印象に残った記事がある。

僕より少し上の世代の男性の方のインタビュー記事だったのだが、彼の両親は仲が悪く、子どものとき、家の中では暴力が吹き荒れていたという。彼は、「だから、女性と結婚して子どもを持っても、幸せになれるというイメージができない。むしろこの世界の不幸を増やしてしまう気がする」と語っていた。

もちろん、本当に女性に興味がない男性もいると思うが、こうした場合もある。

「テンプレワード」の大半は、新規マーケット開拓のために、広告会社が生み出しているものだろう。

別に現代社会の在り方の全てを否定するつもりはないので、こうした言葉も、個人的には必ずしも否定するつもりはない。

(これはこれで、友人とおしゃべりする際にジョークのネタになるなど、役に立つ。それに、自分がビジネスする際にも、結局、こういう分かりやすいタームを考え出さざるを得ないと思う)

ただ、結局、「テンプレワード」というのは、個々人の間にある細かい差異をうまく捉えることができない。

だいたいの人は、テンプレワードに収まらない、さまざまなものを背負っている。それらを総合的に考えないと、その人の抱えている人生の問題は結局解決できないと思う。

「そんな難しく考えなくていいじゃん。自分の人生は自分のものだし、流行を適当に追いかければいいじゃん」と考えるのもありだと思う。

でも、大体の人は、自分は「世界に一つだけの花」(by SMAP。これもテンプレワードですね笑)だと思えることを、心の底では望んでいると思う。

まあ、自分が「世界に一つだけの花」かどうかはともかく、少なくとも僕自身は、自分の生き方や人生の置かれている状況を「テンプレワード」で考えてみて、ちっともすっきり解決した気分にならなかった。

さらに、この自分自身の中のモヤモヤしている感覚になにかしら解決をつけないと、自分が、「生まれてきてよかった」と思って死ねない気がしている。

「自分の中にある、うまく言葉にならない感覚」に向き合うのは、結局、「そのほうが、自分らしく生きる」「自分の命をまっとうする」ことを望んでいるからなのだと思う。

(「自分らしく」という言葉は語弊があるのだが、今のところ、自分の中でぴったりした言葉が見つかっていないので、いったんこの言葉を使わさせてもらう)

このブログについて

「自分の中にある、うまく言葉にならない感覚」に向き合うというのは、このブログにも関連していることだ。

このブログは昨年の6月に書き始めたが、その時、心に決めたことがある。

それは、「自分から逃げない」ということだ。

「経済がこういう動向をしている。だからここにビジネス勝機がある」
「有識者が、社会問題に対して、こんな見解を述べている」

そうした客観的な情報は、大切だと思うし、世の中のメディアが出している情報には、十分に意味があると思う。

ただ、問題は、「世の中いろいろな動きがあるのは分かったけど、キミはどうしたいの?」と聞かれたときに、自分がどう答えるのか、なのだ。

自分が30代になって、自分の人生がある程度見えてきたときに、「あー、自分は『社会にはこういうニーズがあって、有識者はこう言っているよね』という、”第三者的”観点に、ずっと逃げてきたんだな」と感じた。

そんな自分のどっちつかずの状態をどうにかしなければ、もう自分の人生、何をやっても中途半端な感じになる。

そんな危機感から、このブログを始めたのだが、そんなわけで、このブログは客観的なデータを書くことを重視していない。

むしろ、なにかの現象に触れたときに、自分が感じたことをなるべく丁寧に見つめることを目的としている。

(このブログをちらと読んで、「なんでコイツはいつも自分のことばかり書いているんだ」と鼻白んでいる方もいるかと思うが)このブログは、自分が自分の人生から逃げないための船の碇(いかり)のようなものだ。

(「いかり」の漢字は「錨」が一般的ですが、「逃げない」というテーマは、もともとアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公、碇シンジ君に教えてもらったことなので、あえて「碇」で書きました笑)。

なぜ自分が、このような条件下で生まれてきたか


そんな前提を置いたうえで、「自分らしい生き方」と考えたときに、僕が思い浮かべるのが「宿命」「運命」といった言葉だ。

「なんで自分は、江戸時代や明治・大正時代に生まれなかったのか」
「なぜ自分は、太平洋戦争のときに生まれなかったのか」

そんな疑問は、子どものときからついて離れなかった。

というのは、僕は体があまり頑丈なたちではない。子どものときから、疲れるとすぐに熱を出して、動けなくなったりしていた。

そんな中、江戸時代や明治・大正時代に吹き荒れた結核といった話を読むと、「自分は、栄養状態が良く、医療も整った現代日本に生まれなければ、とっくに死んでただろうな」と思うのだ。

そういう意味で、今ここにある自分の生命、30過ぎまで生かされている自分の人生とは何なのだろうと思うのである。

あるいは、先日、このブログでソマリアの話を書いた。

世界に問題が多すぎて、思考がマヒしてしまう時に

現代においても、とてつもない苦難の中を生きている人は多くいる。それに対して、今、自分がこうして、とりあえず生活できていて、パソコンでブログが書くことができる立場にある。それには、いったいどんな意味があるのだろうと思うのだ。


また、自分が「人間」として生まれることも、必然ではないかもしれない。

僕は子どものとき、よく「次に生まれ変わったら、樹木とか、野山を駆け回る鹿とかになってみたいなあ」と思っていた。(今もときどきそう思う)

1000年以上も生きることができる樹木や、人間社会とは違う枠組みの中で、野山で生きている鹿は、おそらく人間とは意識の在り方や思考のフレームがまったく異なるはずだ。

(樹木にいたっては、人間の言葉が意味する「意識」とはかけ離れた世界の中に存在しているように思える)

そうしたものに憧れを感じるたびに、「人間として生まれた自分とは、何なのだろう」と思うのだ。


あるいは、僕は子どものときから、今まで書いたようなことを考える性癖があったが、知り合いにそんなことを話すと、

「●●君って、なんで得にもならないのにそんな小難しいこと考えるの?バカなの?」
「世の中もっと楽しめばいいじゃん」

とよく言われた(なので、正直なところ、他人にこういう話をするのは好きじゃない)。

「なんで皆はこうしたことを考えずにいられるんだろう」と思いつつ、「でも、僕もなんで、こういうことを考えちゃうんだろう」と、よく分からなかった。

宿命を使命に変える


そんなさまざまな疑問を含めて、ふっと自分に厚みをもって迫ってくる言葉が「宿命」である。

「宿命」とは、自分がもって生まれた条件だ。どんな社会、どんな時代において、どんな親の下に生まれるか。そして、どんな性質をもって生まれてくるか。


ここで、冒頭に書いた松木さんの著書に出てくる言葉を引用したい。

「人は、さまざまな運命的背景をもって生まれてくる。
 運命とは、その人の命(魂)に創造主から与えられたもの。それをいかに宿命に変えられるかが、ぼくらの課題ではなかろうか。
  宿命とは、自分の命に宿っている宿題だ。宿題はやっぱり、やらないよりもやったほうがいい。生きているうちに人生の宿題をおわらせなければ、どこかに空虚な気持ちが残る。
   ・・・(中略)・・・・
  持って生まれた運命には、理不尽なことも多くある。どうしてこんな家に生まれてきてしまったのだろう。どうして私にだけこんあことが繰り返し起こるんだろう。そう思う人もいるかもしれない。
  でも、ビジョンクエストやサンダンスなど苦しみを伴う儀式を繰り返すラコタの人を見ていると、苦の体験を通る過程で、ふだん起こっていることに意味を見出していることがある。
  「私にはこういう課題があるから、この家に生まれてきたのだ」
  「こういう境遇が用意されていたんだ」
  自分の人生を請け負うことを大いなる存在と約束し、納得して歩き始めると、誰かにやらされている感じだった人生が主体的なものになる。困難を受け入れ、そこから丁寧に何かを学ぶようになる。
   ・・・(中略)・・・
  そうなると、今度は自分が学んだこと、自分が知り得たこと、自分が身につけたこのチカラを、世のため人のために使おうーー宿命が、使命となってゆくのである。
  これが、「自分として生きる」ということだと思う。
 
  (『あるがままに生きる』P184〜185)

この宿命を深く考える先に、自分が本当に満足できる生き方が見つかるのかもしれない、という気がするのである。


もっとも僕は、キリスト教やイスラム教のような一神教に対する信仰心を持っていないし、アミニズムについても十分に理解していないので、松木さんの語る「創造主」という考え方について、正直なところ、深いレベルで分かってはいないと思う。

また、「自由」と「運命・宿命」の間には、もう少し複雑な関係があるのではないかと思っている。

(個人的にとても好きなマンガ『バガボンド』の中には、「人間の運命は完全に決められていて、それゆえ、無限に自由だ」という、禅問答のような言葉が出てくる)

こういった点については、自分に悟りがおとずれるのはもっと先のことかもしれないけど、また、何かが分かったときに、書いてみたいと思っている。

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