見上げると、ちぎれた雲の向こうに、青空が美しく広がっていた。
草刈り機を抱えて、茶木のあいだの雑草を刈っていくと、小さなクモが慌てて逃げていく。
ときどき、アマガエルが飛び出してきては、しばらくじっとしてから、別の方角へぴょんと跳ねていく。
そのキョトンとした表情でを見ていると、ふっと笑いがこみ上げてきた。
自分の中の静けさに帰るために
夜20時半。東京の末広町のカフェ。深呼吸をしてから、このブログを書き始める。ゴールデンウィークが終わり、ふたたび忙しい日が始まった。
今はまだ、休みが明けたばかりで、心には余裕がある。
でも、しばらく忙しい期間が続いて、ストレスが溜まってきたら、こんな余裕など吹き飛んでしまうかもしれない。
最近になって、自分の不幸は、自分の心がつくるのだとますます感じるようになった。
イライラしていれば、自分を際限なく不幸にすることもできる。
逆に、落ち着いた気持ちでいれば、今ここにある幸せを深く味わえる。
自分の中にある静けさにいつでも帰ってこられるよう、先日滞在した農村での静かな時間の記憶をつづりたいと思う。
「色とりどり」の場所
5月3〜5日、熊本の阿蘇山麓にある山都町に滞在し、農業ボランティアを行った。
【今週の感謝】熊本の山の中でベトナム人の方々とバーベキューして:山都町滞在記
僕は、東京近郊のベッドタウンで育った。近くに田んぼはあったが、ふだん、自然と触れ合う機会はほとんどなかった。
そんな人間が、農村の生活を知ってかぶって書くつもりはない。以下は、あくまで「中途半端な都会者」の感想と思ってもらえれば幸いである。
農村に行くと、よく思い浮かべるのは、「色とりどり」という言葉だ。
昨年に訪れた新潟県の十日町では、多くの農家の家では、色とりどりの美しい花が育てられていた。
僕たちは次の世代に何を残せるだろうか:新潟県・十日町で考えたこと
今回、僕がお世話になった山都町の農家の方のお宅でも、ユキヤナギ(写真)をはじめ、多くの花が植えられていた。
単純に、そうした意味での色彩の豊かさもある。
でも、それだけでない。
山中の畑で働いていると、クーラーや扇風機と違い、風が不規則に吹きつける。
太陽が隠れたかと思ったら、また雲間から顔をのぞかせる。
畑で雑草を刈っていたら、あちこちから虫やカエルが飛び出してくる。
ふだん、空調などによって一定の状態を保たれたオフィスで働いていると、自分の五感のいろんな部分は、閉じられた状態にあるのだと思う。
それが、このようなダイナミックな変化の中で開かれ、カラフルに染め上げられるような感覚になるのだ。
宝物のような時間
滞在中、お世話になっている家のおじいさんと茶畑に行き、草刈りをした。
2人で黙々と働いていると、不思議なことに、1人のときにはないような心の落ち着きを感じた。
茶畑の雑草を取った後、僕たちは草むらに腰をおろした。
そこで、おじいさんは、昔、スズメバチを退治しようとして刺されたことや、結核が流行っていた時代の話をしてくれた。
物静かなおじいさんと一緒にいて、青空を眺め、鳥の声を聴き、風の流れを感じている時間は、まるで宝物のようだった。
今振り返って、そう思う。
昨年と今年のちがい
もっとも、そんな農村の美しさを、昨年は十分に感じることができなかった。
昨年、初めて山都町を訪れたときは、僕は前職を辞める前だった。
いろいろ悩んでいるけれど、次の行き先は決まっていない。そんな宙ぶらりんな状態で、山都町を訪れた僕は、将来を考えるヒントがないか、ガツガツとした目で探していた。
だから、雲の動きも、空の青さにも気づかなかった。
今回、山都町の美しさが感じられたのは、自分の状況が昨年に比べて相対的に落ち着いているからだと思う。
人間の脳は、心配ごとや恐怖にすぐに支配されてしまうものだ。
だから、「美しい自然が、美しい心をつくる」といったことを、単純に言うことはできない。
恐怖に飲まれない心の強さを身につける
農村ほどビビッドでないにしても、都会でも自然の変化を感じることができる。
4月下旬の朝、会社に通勤していたときのことだ。
職場近くの地下鉄の駅で降り、地上に上がると、「むわっ」とした空気の重さを感じた。雨の始まりを告げる、大気の動きだった。
そのとき、地球のさまざまな働きが、自分の身体に流れ込んでくるような気がした。
そして、「自分は今ここで、さまざまなものの働きと共鳴しあって存在しているんだな」と、ふと感動を覚えた。
結局、大切なのは、まず、心配ごとや恐怖に感性を押しつぶされない強さをもつことだと思う。
そして、そうした力を身に付けるのは、困難を乗り越えた経験値などに寄るのだろう。
その点は、都会にいても農村にいても変わらないように思う。
もっとも、そのように、目先の心配や恐怖に心を支配されない強さを身につけたなら、そのときこそ、農村は、真の意味で都会にはないチャンスを提供してくれる場所になるように思えるのである。
農村が自分の感性に、なにを与えてくれているのか。
それを、自分はまだうまく言葉にしきれないのだけれど、今後、感受性と思考の両方を深めながら、探っていきたいと思っている。
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