複数存在した人類
僕たち、現在の世界で生きている人類は、生物学では「ホモ・サピエンス」という種に分類されています。
ただ、少なくとも数万年前までは、人類、つまりホモ属に属する動物は、サピエンスだけではありませんでした。
ヨーロッパや西アジアには、「ネアンデルタール人」と呼ばれる寒冷な気候に適応した人々、アジアの東側には、200万年近く存続したという「ホモ・エレクトス」と分類される人々がいました。この他にも、さまざまな種類の人間がいたということです。
ただ、現代に生き残っているのは、僕たち、ホモ・サピエンスだけ。これは、なぜなのか。
「想像上の現実」を創り出す力
2足で直立歩行をし、道具を使い、火を使う。こうしたことは、他の人類種もできたということです。さらに、脳の大きさだけでいうと、恐らく、ネアンデルタール人の方が、サピエンスより大きかったという。
本書では、サピエンスだけにしかできないこととして、認知能力の拡大により、虚構(想像上の現実)を生み出すことができるようになったことを挙げます。
虚構(想像上の現実)とは何でしょうか?
本書でその例として挙げているのは、僕たち日本人の多くが働いている、株式会社という仕組みです。
例えば、自動車会社のプジョーの場合、同社がつくる自動車や、自動車をつくる工場、同社で働いている社員、彼らが働くオフィスなどは、現実に存在します。
しかし、「プジョー」という会社自体がどこにあるのか、ということは、僕たちには、指さして示すことができません。本社を指したところで、それはコンクリートの塊でしかないからです。
それにも関わらず、多くの人が、プジョーという会社を、現実の存在として見ています。
なぜなら、資本主義という制度の中で、法人として登記され、そして、宣伝などを通して、その存在が「ある」と思っているからです。
このような、手で触ったりできないのに、僕たちが「存在する」としている(そう信じている)ものを、著者は虚構(想像上の現実)と読んでいます。
虚構により、大人数の協力が可能に
こうした虚構を創り出す力が、どのようにして生まれたのかは、はっきりとはわかっていません。理由は分からないけれども、今から7~3万年前ほどの間に、人類が、非常に柔軟性のある言語を生み出したことが、その大きな要因になっているようです。
生き物の多くは、言葉を持っています。犬は、吠え方を変えることで、威嚇だったり、甘えだったり、その意志を伝えることができます。
しかし、サピエンスの使う言語は、こうした単純なことだけでなく、集団内外の情報を、実に細かく伝えることができます。
例えば、著者は「陰口をたたく」「噂話をする」といった例を挙げます。
サルなどの使う言語は、「敵が来たぞ!」と言った合図のレベルにとどまり、親しさを示すには、実際にスキンシップを図ることで取るようです。
その一方で、サピエンスの言語の場合、「誰が誰にどんな気持ちを持っているか」「誰が誰に過去にどんなことをしたのか」「本当に信頼足る人物なのか」。こうしたことを、ことこまかに説明ができます。
そのため、例えば、現代の社会でも、「●●さんから紹介された人だったら、信頼できる」といった関係構築が可能になるわけです。
こうした言語を持つことによって、情報の流通量が飛躍的に拡大します。
著者はさらに、ここからサピエンスは発展して、虚構を生み出す力を得たことが、今日の(少なくとも人口数上の)繁栄につながったと見ています。
噂話を通して関係が強化されても、150人くらいの成員が一つの集団として限界ということです。
しかし、例えば、「われわれは同じ日本人である」と言った場合、(少なくとも建前上は)1億人以上が協力しあえるコミュニティーを創り出すことができます。(太平洋戦争中の、「一億玉砕」といった掛け声を思い出せばいいでしょう。)
著者は、虚構(想像上の現実)を、「神話」とも言い変えていますが、これができるようになり、より多くの人間の協力体制を築くことが可能になったこと。それにより、人間は、他の生物では持ち得なかった力をふるうことができるようになったということです。
虚構の方が大きな力が出せる?
本書の後半では、特に人類に影響を及ぼしてきた虚構として、宗教、貨幣、帝国のほか、資本主義のような社会制度について詳述しています。(これについては、別途記事を改めます)本書を読んでいて、僕が思ったのは、仏教の歴史です。
僕自身が取り組んでいる仏教の一派である座禅やマインドフル瞑想では、(厳密なところでは解釈は分かれると思いますが)、基本的に、「虚構を排し、今ここの現実に立ち返る」というのが根幹となっています。
他方で、仏教の中でも、浄土真宗などは、キリスト教の神とは多少異なりますが、阿弥陀如来というものの存在を想定します。
僕は仏教学者ではないので厳密なことは言えませんが、例えば戦国時代に浄土真宗の流れをくむ一向宗の一揆が大きな動きとなったのに対し、禅宗は武家社会などで力は持っていたものの、何か社会変革の直接的な要因にはならなかったようです。
集団的な力、という意味では、確かに、こうした超越的な存在を仮定した方が、人間というのは大きな力が出せるのではないかと思います。
また、僕が今書いているこのブログも含め、メディアというのは、虚構を生み出す仕事という側面があるかと思います。
こうした点を踏まえ、「虚構を生み出すのがサピエンスである」ということにどのように向き合って言ったらいいか。
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