「ねまる」の近くにあるお寺 |
先日訪れた新潟・長岡市にあるゲストハウス「ねまる」で、成り行きから、そこに滞在しているセラピストの方に施術を受けました。
彼女が取り組んでいるのは、「感情解放マッサージ」という独自の手法。
これは、身体に触れて、患者の持っているトラウマや、今の精神状況を読み取り、それを癒すエネルギーの循環をつくるというものです。
例えば、僕は最近、腰痛気味だったのですが、施術中、彼女は腰に触れると、「将来や仕事への不安ごとがありますね」と指摘しました。
そのほかにも色んなことを言われ、「身体にさわることで、こんなことまで読み取れるのか」と驚いたのですが、深く刺さったのは、「他人に甘えるのが苦手ですね」という指摘。
子どもの時から抱えてきた、あるトラウマを突かれた気がしたのです。
「無力な人間」という不安
子どもの時、親から「お前は勉強だけしていればいい」「子どもは勉強が仕事」と言われ、家事もほとんどやったことがありませんでした。
(子どもの時に包丁でけがをしたことがあるり、それ以来、料理もほとんどしませんでした。もっとも、親には親のやり方があるので、僕が手を出すと逆に迷惑という側面もあったと思いますが)
その中で、「自分は何もできない人間だ」という不安が募りました。
僕は特に、本を読んで空想にふけるのが好きで、あまり友達と遊ぶタイプの人間ではなかったので、「人づきあいも苦手だし、家事もできない」という無力感と、「このままでは、自分は生きていけないんじゃないか」と感じていました。
このコンプレックスの裏返しとして、多分自分は、必要以上に自分の有能さをアピールしようとする、あるいは自分の無能さを突き付けられるのを恐れる癖があったのではないかと思います。
もっとも、社会人になった後、自分でお金を稼いで生活する経験をしてみて、「なんとか自分も生きていけるかも」と、多少なりとも自信を持つようになり、多少はマシになったのではないか、という気がしますが、依然「他人に無力な人間だと思われたくない」という恐れは残っているような気がします。
弱さを見せると信頼を失くす?
弱さを見せるのが難しい理由の一つは、「弱さを見せると、信頼を失う」ということがあると思います。
例えば、仕事で、納期が迫っている案件をやっているとします。この時、チームの一員が、「こんなの大変過ぎてとてもできない」と泣き言を言いだしたとしたら、その後、彼に信頼して仕事を任せることが難しくなるのではないでしょうか。
また、小説の引用で申し訳ないのですが、夏目漱石の『道草』に、主人公に何度もカネをたかりにくる親戚の話が出てきます。もちろん、この親戚も生活に困ってのことなのですが、主人公がこの親戚を厭い、憎む気持ちが描写されていきます。
一種、弱さというのは、こういう”醜い”面があると思います。
先日、ラオスの農村生活に関するセミナーに行った際、「相互扶助で成り立つ社会」という話が出てきました。そういう社会では、「互いに弱さを見せ合う」という関係もアリかもしれません。
けれども、日本のように、「自立した個人として生きる」ことが前提となる社会では、どうしても、「弱いこと、他人に迷惑をかけることは醜い。」があると思います。
弱さが生み出す力
でも、それと同時に、弱さが持つ、ある「力」のようなものがあると思います。
先日、前職でとてもお世話になった方と話す時間がありました。
その方が、とても静かに話しを聞いてくれたので、僕は徐々に、今の自分が抱えている不安などを吐露したのですが、それが終わった後、何だかとてもすっきりして元気が湧いてくるとともに、めったに感じないような温かい感情が内側から湧いてくるのを感じました。(それもあって、こうした文章が書けるようになったのですが)
逆に、前に、あることで悩んでいる友人の話を二時間くらいにわたって聞く機会がありました。友人が抱えている悩みについて、それほど大したアドバイスは出来なかったのですが、聞き終わった後、なにか「自分はこの人の役に立った」という一種の充実感と、それまで以上の親近感を感じるようになりました。
前に読んだ、哲学者の鷲田清一さんの『弱さのちから ホスピラブルな光景』という、ケアの在り方を扱った本の中に、こんな一節があります。
「他者の気持ちの宛て先であるということ、言いかえると、他者のなかにじぶんがなんらかのかたちである意味のある場所を占めているということ、このことを感じることで、生きる力が与えられるというのはわかりよいことである。いくつになっても恋愛という関係に焦がれ、日々の仕事を措いてもボランティアに出かけるというのは、そこで、じぶんでなくてはという想いがじぶんを占めるからである。だれかある他人にとってじぶんがなくてはならないものとしてあるということを感じられることから、こんなわたしでもまだ生きていていいのだ・・・・・・という想いがそっと立ち上がる。<わたし>という存在に顔がよみがえるのだ」(講談社学術文庫、229~230ページ)
弱さには、一種、お互いの力を与えあうような関係を生み出すこともあります。
また、弱さこそがコミュニティーを生み出す大きな力となっているのではないか、とも思います。
この、弱さというものの醜さと力にどう向き合うのか。
この問いの周りで、しばらく自分がぐるぐるするのだろう、という気がします。
0 件のコメント:
コメントを投稿