平日の夜。仕事上がり。メトロに乗って空席に座ると、色んな感情が湧き上がってくる。
「マンガでも読んで、気晴らししたいな」と、仕事の緊張を別の刺激でやわらげたい欲望。
「空いている時間をムダにするな。資格試験の勉強しろ」と、自分を急かす気持ち。
「明日の仕事、大丈夫かな」と、不安になる感情。
呼吸を繰り返して、波だった心が落ち着くのを少し待つ。そんな風にして、この記事に関するメモを取り始める。
年越しのセレモニーでの自己観察
年末年始は、タイのプラムビレッジのリトリートに参加した。
前回記事について:
大晦日の晩、プラムビレッジでは年越しのセレモニーが行われ、僕も参加した。
大きなホールでお坊さんたちがお経を唱えたり、仏様に捧げ物をする儀式に同席させてもらった後、僕たち参加者は外に出て、ランタンを受け取る。
そして、ホールから少し離れた広場まで歩いて行く。
広場に着くと、ランタンを「Walk with me」という形に並べる。その隣に焚かれている火に、来年の決意を書いた紙を投げ込む。
広場に着くと、ランタンを「Walk with me」という形に並べる。その隣に焚かれている火に、来年の決意を書いた紙を投げ込む。
震災の被災地で行われるキャンドルナイトを想起させるような、おごそかで幻想的な雰囲気だった。
夜に火の明かりを見ていると、自然と心が静まってくる。
そんな中、マインドフルネス瞑想によって、自分の中に起きていることを観察し続けた。
そんな中、マインドフルネス瞑想によって、自分の中に起きていることを観察し続けた。
そこでふと、「心って、一つではないんだな」と気づいた。
ランタンの光に照らされながら、自分の心の中には、いくつもの感情が同時に生まれては、変化し、消えていっていた。
「こんなすてきな雰囲気の中でお願いごとをするんだから、来年はきっと良いことがあるに違いない」と淡い期待と、不安を押し隠したい感情。
「おー綺麗だ。この写真をFacebookやInstagramにアップしたら、いっぱい『いいね!』がついちゃうぞ」といった自己顕示欲。
「こんな神秘的な光景だもの。ただ、この美しさを感じていたい」と、ぼんやりとした安らぎ・・・・
日本に帰国した後も、自分を観察していると、日常生活の中でこうした「複数の感情」は、さまざまな場面で発生していることに気づいた。
例えば、この部分を書いているのは、本日(土曜日)の昼時だ。
そのため、書いている最中、「そろそろお昼の時間だー。何食べよっかな」となっている自分もいる。
同時に、「書くの疲れたー。もうアタマ使いたくなーい。マンガ読みたい」となっている自分もいる。
「次に予定が入っているから、●時までに切り上げないとなー」と焦っている自分もいる。
「次に予定が入っているから、●時までに切り上げないとなー」と焦っている自分もいる。
自分の中にある、複数の感情の「種」
大乗仏教では、人間の意識構造を「八識」、つまり8つの形があると仮説を立てている。
まず視覚や聴覚といった五感。
それから第6番目の意識として、思考(意識)。
それから、7番目の「末那識(まなしき)」(自意識を作り出す無意識内の作用)。
そして、8番目の「阿頼耶識(あらやしき)」である。
「阿頼耶識」とは、ある人のすべての経験や、先祖から引き継いできたもの、さらには同時代の社会・文化による影響などもすべて収蔵している「蔵」のようなものだ。
そして、この阿頼耶識には、「悲しみ」「怒り」「喜び」「恐れ」といった、さまざまな感情の「種」がある。
阿頼耶識にある種は、僕たちが経験するさまざまな出来事によって、あたかも水を注がれたように、成長したり、しぼんだりする。
例えば、暴力的な映画ばかり見ていると、暴力を好む種に水が注がれ、その人はだんだん暴力的な人間になっていく。
そういう理解なのだが、どうや「暴力を好む種」というのも、けっして一つの種ではない(これは、僕個人が、自己観察で得た見解なので、「公式見解」的なものではないのだが)。
例えば、暴力的な映画を見ている時というのは、「オレもこんなふうに暴力をふるえる強い人間だと、周りの人間に思ってもらいたい」といった自己顕示欲が働く(特に男性の場合)。
その一方で、「こんな暴力を受けたら、さぞ怖いだろうな」という恐怖も受ける。
あるいは(ヒーローがヒロインを守っている場面などにおいて)「自分も、弱者をこんなふうに守れるカッコイイ人間になりたい」といったプライドも刺激されるかもしれない。
一つの映画を見ていても、同時に複数の種が刺激を受け、反応している。
脳科学の見解から
仏教的ではなく、脳科学的に考えても、同時に複数の感情が発生するというのは、妥当な考え方なのではないかと思う。
脳には、思考を司る大脳新皮質と、感情を司る大脳辺縁系が存在する。
さらに、大脳辺縁系も、性欲などの原初的な情動をつかさどる「古皮質」と、生活習慣な
どにもとづいて感情を生み出す「旧皮質」という部位があるらしい。
(この部分をつっこんで書くには、僕自身、もう少し脳科学の勉強をしなければならないし、そもそも、脳科学でもまだ分かっていない点も多いらしいのだが)
脳も、さまざまな部位がそれぞれの働きをしている。そう考えても、「人の心は一つではない」と思えるのである。
「幸せになりたい」という意志を持つこと
「君が何を考えているのか、全然分からない」
こんなことを、何人の人から言われたことがある。そうした時はだいたい、自分でも、自分が何を感じているのか分からなかったりする。
僕は、他人から、「君って、人好きだよね」と言われることもあれば、「君って、人間嫌いだよね」と言われることもある。
それで、そのどちらにも妥当する自分がいることが分かるので、「本当の自分って、どちらなんだろう」と、混乱してしまうことがある。
(就職活動でも、「あなたはどんな人ですか?」と尋ねられ、答えるたびに、自分で自分にウソを付いているような罪悪感に駆られることがよくあった)
(就職活動でも、「あなたはどんな人ですか?」と尋ねられ、答えるたびに、自分で自分にウソを付いているような罪悪感に駆られることがよくあった)
そんな、「自分でも自分がよく分からない」状態が続いていたが、こうしたことに気づいてから、他人と話している時の自分の心理状態を観察してみた。
すると、こんな感情が同時に発生していることが分かった。
すると、こんな感情が同時に発生していることが分かった。
「この人とうまく話して気に入られれば、メリットがあるかも」(短期的な自己利益を求める心)
「この人、大変そうだから手伝ってあげたい」(慈悲)
「オレ、他にもやることあって忙しいんだよ」(怒り・イライラ)
「最近ずっと人と会ってばかりで疲れた。オレを1人にしてくれよ」(ストレス)
「でも、誰にも自分の気持ちを話せてなくって、苦しい」(さみしさ)
これらすべての感情が、自分である。
こうしたさまざまな感情の中で、「ありのままの自分」と、別の「ありのままの自分」がぶつかり合って、自分の中に混乱が生じているのだ。
多分、ここで大事なのは、「こっちのほうが、本当の自分で、こちらは嘘の自分」と断罪することではない。
それよりも、いったん「どちらの感情も自分なのだ」と受け容れること。
その上で、自分は、どういう方向に生きたいのかを、意志を持って判断することなのだと思う。
その上で、自分は、どういう方向に生きたいのかを、意志を持って判断することなのだと思う。
フロイトが「死の衝動」という言葉を使っているらしいが、そもそも、人間の中にはネガティブなものを願う感情も存在している。
で、それを押さえつけると、結局、ストレスで爆発することになる。
自分の中のネガティブな感情に、「そんなに不安がらなくてもいいんじゃない」と、慈しみの水を注ぐこと。
そして、幸せを生み出す種に、「大きく育ってね」と、水を注ぐこと。
「幸せに生きていける自分」というのは、そうした「自分の中での和解・変容」のもとに、つくっていけるのではないかと思った。
(つづく)
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