土曜日の朝、予定よりも1時間早く目が覚めた。
カーテンごしに朝の光が、さざなみのように、まぶたの裏に打ち寄せてくる。
睡眠と覚醒のあわいの中で、さまざまな感情が現れてくる。布団にくるまったまま、それらを見つめてみた。
脳の一部では、昨晩見たDVD『アナと雪の女王』のメロディー(『ありのままで』)が、にぎやかに鳴り響いている。
「3連休で、自由時間があるぞ!何に使おう」といった期待も湧き上がっている。
その一方で、「3連休中に、資格試験の勉強をすすめなきゃな」「仕事に関しては、アレを準備しておかないとマズイな」と、焦る気持ちも、顔を覗かせている。
それらの感情を見つめた後、何度か、息を吸って、吐く。
そんな風にして、このブログの文章を考え始めた。
「人生を楽しむことができない」という感覚
年末年始に行っていたタイのプラムビレッジのリトリートでは、集中して自分を見つめる時間を得た。前回記事:立ち止まって自分を見つめる:プラムビレッジのリトリート(1)
マインドフルネス瞑想とは、つまるところ、自分の中に起こっている感情を見つめ、苦しみの原因を探る技術と言えると思う。
プラムビレッジにいる間に教わった瞑想の技術を使って、自分が「苦」だと感じる場面を想起し、その原因を探ってみた。
それでまず思い当たったのは、僕はそもそも「人生を楽しむ」という感覚をうまく持てない、ということだ。
いろんな人から、これまで「もっと人生を楽しめ」と言われたことがある。
また、自己啓発本でも、「人生、楽しんだ者の勝ち」といった金言を読む機会が多い。
でも、頭では分かっても、心の底からそんな感覚になるのは、うまくできない。
その原因を、自分の心の中に探っていくと、主に2つの原因が思い当たった。
一つは、自分の生が他者(人間だけでなく自然も含め)の犠牲・抑圧の上に成り立っているのではないか、という罪悪感。
もう一つは、生きることに対する不安である。
罪悪感の話は、今の時点で整理して書くのが難しいので、ここでは不安の話に絞って書いてみたい。
不安の要因
自分の中にある不安の感情を見つめていると、いくつかのパターンがあることが見えてくる。一つは、「自分は重大な問題を見落としていて、のほほんと遊んでいる間に、破滅が迫ってきているのではないか」という強迫観念。
もう一つは、「このままいくと、仕事が終わらない。どうしよう〜」といった、焦りに似た感情。
それぞれを、もう少し細かく見ていく。
「今は楽で幸せでも、すぐに苦しみがやってくる」という思い
「どんなに楽しいことがあっても、その後にはいつも苦しみがやってくる」「人生において、幸せの量と苦しみの量をはかりにかけると、苦しみの方がいつでも大きい」
子どもの頃から、自分の中にはこういった感覚が根強くあった。
なぜ、こういう感覚が強いのかは、よく分からない部分も多くて、今後、さらに自己探求をしていきたいが、こんな性格の帰結として、僕は、遊ぶことが基本的に苦手である。
(僕は、子どもの時、空想にふけりがちな注意散漫な人間で、学校の先生などによく怒られていた。で、こういう失敗が起きるのは、大抵、休み明けで気が緩んでいた時などが多かった。多分、子どもの時のそんな経験が、一つの原因になっているのだと思う。)
いや、正確に言うと、遊ぶことが嫌いなわけではないが、
「幸せの後は、大変な不幸のしっぺ返しがくるに違いない」
「自分がのほほんと遊んでいる間に、(職場や家庭で)取り返しのつかない大問題が起きているかもしれない」
という気がして、遊んでいる最中に「こんなことしている場合じゃない」「危機に備えなければ」という感情がこみ上げてくるのである。
そのため、ものごとを心から楽しいと思えることは滅多にない。
僕は勉強のセミナーなどに参加して、人と交流するのは、基本的に好きだ。
なぜなら、「これをキャリアにつなげて、自分の未来の不安を少しでも減らせるぞ」といった意識が働くからだ。
しかし、純粋に楽しみのために人と関わるというやり方が、実はよく分からない。
「じゃあ、ずっと仕事をして、もっとお金を稼げばいいじゃん」と割り切れればいいのだが、そういう後ろ向きの姿勢で生きているため、仕事やキャリアアップを目指すことも、それなりのストレスなのである。
で、結局、ネットサーフィンやマンガでの気晴らしに逃げる。そして、気晴らしをした後で、「ああ、無駄に時間を使ってしまった」と後悔と罪悪感に駆られるというパターンになる。
「ほかのことをやっていると、企画を作れない」という恐れ
これに関連して、仕事の上でストレスを感じる場面がある。
僕は、仕事ではメディアの企画を立てたり、取材をして記事原稿を書いたりしている。
そのため、仕事上では、「いいアイデアが思い浮かばなくて苦しむ」というケースが多い。
企画立案や原稿作成のスケジュールを決めていても、アイデアがちゃんと出なかったり、まとまらずに、結局、押せ押せになってしまうことがしょっちゅうある。
こうした中で、「四六時中、企画や記事のことを考え続けていなければいけない」と、自己脅迫する癖がある。
そのため、マインドフルネス瞑想で「今、ここで自分がやっていることに集中しよう」としても、
「バカヤロー!仕事を忘れて瞑想なんかやっていて、いいアイデアが出てこず、スケジュール内に案件を進行できなかったらどうすんだよ。お前、責任取れるのかよ」
と、「不安を手放したくないもう一人の自分」が出て来るのである。
(こんなことを上司に言われたことは一回もない。なのに、自分で自分を責めてしまうのである)
自分の不安をうまく宥めることができない
こうした不安にいつも押し負けて、結局、脳が疲れ切るまで不安で頭をぐるぐるさせて、体調を悪く(頭痛)して休むということを、これまで繰り返してきた。(体調が悪くなると、体の防衛機能が働いて、不安が弱まってくれる。で、健康になると、また不安が押し寄せてくることを繰り返している)
自分のこんな状況自体は、(あまり整理はできていなかったものの)以前から気づいていた。
そこで昨年、瞑想会でお世話になっている先生(ティク・ナット・ハン師のお弟子さん)に、
「クリエイティブ関連の仕事をしていると、常に新しいアイデアを考え続ける必要があるので、マインドフルになるのが難しいが、どうすればいいか」
という質問をしたことがある。
その時は、「例えば、あなたが10分間外を歩いて、無心に青空や、花を眺めたとします。そうすると、あなたの書くものにも、青空や花の美しさが現れ、より良いものになりますよ。だから、たとえ筆が乗っているときでも、休憩を取ったほうが良いです」
といった答えが返ってきた。
その後、教えを実践しようとして、職場で定期的に休憩を取ろうとしてみたのだが、
「働き続けていないと、不安で、いてもたってもいられない」
と反発する自分がいて、結局うまく休むことができなかった。
「お前みたいに出来の悪い人間は、いつでもキャリアのことを考えていないと、他の人たちから置いて行かれるぞ(お前みたいなやつは、社会で生きていけないぞ)」
こんな不安の感情は、そうとう強く自分の中に巣食っている。
理屈でこの感情をねじ伏せるのは難しそうだな、と、瞑想しながら、自分で自分にちょっと呆れてしまった。
最近、ビジネス雑誌などで「マインドフルネス瞑想を取り入れることで、生産性が●%アップした」といった内容の記事を見かけることが多い。
そういった記事を読んで、自分を奮い立たせようとしたのだが、やっぱりいざ仕事を始めたりすると、すぐに不安に流されてしまう自分がいた。
まずは信じてやってみる
正直、ここで、自分の理屈は行き詰まりを感じてしまった。ただ、それでもなんとかできる方法はないか、と考えてみる中で、「自分のような人間に必要なのは、一種の“信仰心”みたいなものかもしれない」と思った。
つまり、理屈ではなく、
「マインドフルに生きる(不安にとらわれず、今ここでやっていることに集中する)ほうが、マインドレスな生き方よりも、自分は幸せになれるはず」と、いったん無条件に”信じて”みることである。
マインドフルに生きても、不幸は訪れるかもしれない。また、瞑想をやっている間に、なにか不幸なことが起こるかもしれない。
それでも、常に不安と戦っているマインドレスな状態よりも、マインドフルに生きたほうが、全体として自分は人生を悔いなく過ごせるだろう」と”信じる”ことである。
昔、自分が通っていた大学院に、禅堂があったので、約4ヶ月間、週1で座禅をさせてもらったことがある。
その時の講師(論理哲学の分野ではとても有名な教授)が、
「禅は徹底的に自己を見つめるものなので、信仰的な要素はほとんどなく、宗教と言っていいのかすら怪しい」
「ただ、1点だけ、宗教的な要素があるとしたら、「自分は、何か大きなものに、受け止められている」という感覚があることだと思う」
という話をしていたことを、瞑想中にふっと思い出した。
マインドフルネス瞑想をやれば、自分の人生は100%ハッピーになれる、などという確信は持てない。
ただ、いったん「信頼してやってみます」という態度で望むことはできるのではないかと思う。
不安が湧き上がった時に、
「不安君の言ってることも分かるよ。でも、とりあえず、しばらくの期間、マインドフルネス君を信頼して、任せてみようよ」
と自分に言ってみる感覚である。
もう少し、色々と修行を積む中で、自分の中で変わる部分があると思うが、今の段階で、自分のようなややこしい性格の人間は、「あんまり頭で考えすぎない」ことが必要なのかも、と思った。
(つづく)
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