「自分はダメな人間だ」と感じる時に:石牟礼道子さんと親鸞

2018年2月24日土曜日

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先々週に行った川崎で見かけた路上ライブ

溜まっていた疲れが出たのか、今朝は布団からなかなか起き上がれなかった。

「確定申告もしなきゃいけないし、フリーランスの仕事もあるし、土日はやることが山積みだー」。なのに、やる気が起こらない。必要な書面を眺めても、頭がうまく働かない。

こんな時、「自分はダメダメ人間だ」「社会の不適合者だ」といった感情が鎌首をもたげてくる。

もっと大変な思いをしている人が世の中にいることは分かっていても、こういう時は、自分だけがダメな人間な気がしてくる。

子どもの時、何をやっても不器用で、色んなことに失敗していた。この時に形づくられた劣等感は、そんなに簡単に消えないのだろう。
(まあ、大人になってからも、ここには書けない失敗も色々とあるのですが。。)

そんな中、今読んでいる本が、深く心に残った。

『親鸞ー不知火よりのことづて』

先日、下記のようなブログ記事を書いた。

子どもの心で世界を見る感性:石牟礼道子さんの『あやとりの記』

石牟礼道子さんが亡くなってから、彼女の著作でこれまで読んだものは再び書棚から取り出し、まだ読んでなくAmazonで安く入手できる本は取り寄せ、ちょっとずつ読んでいる。

今読んでいるのは、1995年に発行された『親鸞ー不知火よりのことづて』(平凡社ライブラリー)。浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)について、思想家の吉本隆明さんとロシア文学研究家の桶谷秀昭氏、そして石牟礼道子さんがスピーチした内容をまとめたものだ。

昨年、熊本市に行った際、浄土真宗系のお寺が多いことが印象的だった。そうした土地柄もあり、熊本の天草生まれ・水俣育ちの石牟礼さんも、親鸞には馴染みがあるのだろう。

だが、それ以上に、この二人は「世の中をうまく生きれない人たちの生き方」を考えていた点で、通じ合う部分があるように感じる。

「自然法爾」を生きる

不美人に生まれついてしまったら、美人にはかなわない。ビジネスセンスがあり外交的な人間に、内向的な人間はかなわない。

自分がこれまで人生でできなかったことを振り返るたびに、「世の中って、もともと不平等だよね」という思いが湧いてくる。

「他人と比較なんかしてないで、自分らしく生きればいいじゃん」

よくそう言われるが、心の底からそう割り切る心になれないのは、自分の業が深いのだろう。


親鸞という人の言葉は、そんな中で読むたびに心に響くものがある。

彼の発言をまとめた『歎異抄』という本には、

「自分はどんなにがんばっても善人になれないから、地獄にいくしかない人間だ」
「自分が人殺しをしないのは、たまたまだ。もしそういう業を持って生まれていたら、1000人でも人を殺すかもしれない」
「念仏なんか唱えても、ちっとも嬉しい気持ちにならない」

と、ネガティブな発言が続く。「がんばれば自分を良くできる」といった発想を、初めから捨てている。

その上で、親鸞が行き着いたのは「自然法爾(じねんほうに)」という考えである。

個人的には、この言葉を「ダメな部分も全部受け入れて、徹底的に自分の自然な状態を生きること」だと解釈している。

例えば、僕は(特に人間の暗い心理を探るタイプの)文学作品などというものが好きだ。周りにそんなものを読んでいる人はほとんどいないし、「ポジティブ思考に染まり切れない自分」に、コンプレックスを持っている。

(ビジネスの啓発本を読むまでもなく、世の中を見ていて、ポジティブシンキングの人の方がタフな生き方ができることは、身にしみて感じる)

だが、こういう性格に、自分から好きでなったわけではない。文学作品を読むのも、好きという言葉は正確ではなくて、どちらかというと「やらずにはいられないこと」だった。

「やらずにはいられないこと」も、「世間ずれして苦しんでいること」も、両方を同時に受け止める。「それで仮に地獄に行くことになったとしたら、それはそれで良いじゃないか」。

親鸞の言葉には、そういう諦念があるが、その底には、明るい光がにじみ出ている気がする。

他者と心が溶け合う瞬間を持つこと

一方で、石牟礼さんの場合、子どもの時から貧乏な人たちに囲まれて育った。

彼女の父は酒乱だった。近くには娼閣があり、彼女は貧困家庭から売られてきた売春婦(いんばい)たちと一緒に遊びながら育ったという。

小学生の時、親友だった同級生が売春婦として売られ、学校に来なくなった、と言った話もしている。

若い売春婦の女の子が恋人とダイナマイトで心中して、血潮や肉片が壁に飛散しているのを見たりもしたという。

石牟礼さんは水俣病の悲惨な状況を描いた『苦海浄土』で知られているが、水俣病以前に、彼女の周りには多くの悲惨な事があったのである。

そうした人たちの救いがどこにあるのか。

彼女は、水俣病患者への補償などについて、元凶となったチッソとの交渉の場に何度も赴いた。その時の患者さんたちの態度から、「他者と心が溶け合う瞬間を持つこと」だと書いている。

『親鸞ー不知火よりのことづて』の中で、彼女は「(患者たちは)自分たちは、あるいは死んだ者たちは、生きてあたりまえの人生を送りたかったのだ、ということをおっしゃりたいのですが・・・」と切り出し、このように述べている。

「あたりまえに生きるとはどういうことか。この世と心を通い合わせていきてゆきたいということなのです。・・・(中略)・・・ひとさまにも、魚にも狐なんかにも猫たちにも、生きているものことごとくと交わしたい煩悩に、本来自分らは満ちあふれている。そのつきせぬ思いがぶった切られるのが辛い。そういう気持が大前提としてあるのではないでしょうか」

「このような人たちの解釈では往生という時、いろいろ苦労もしたけれども、充分自分の思いを周りの人たちと交わし合って死ぬのを往生というんだと思っているのです・・・(中略)・・・わたしが見た限りでは、患者さんたちはチッソの人たちに非常に深いまなざしで、一種の哀憐を、深い心を持って向き合っておりまして、それは大悲とか大慈と言うのに近い姿だとわたしは感じております」

そして、「考えてみれば、普通の日常でも人間お互いいかなる関係であれ、他者と心溶けあう瞬間を待ち続けて生きているのではないでしょうか」と石牟礼さんは述べている。


出世したり、世間的な成功を収めるのではない。ただ、自分の周りの人々や、自然に深く触れ合えながら死ねたら幸せという考え。

実際、彼女が水俣病の患者の方を見舞った時、

「もうほんに道子さん、蜜柑山の草がなあ、毎日、草がよびよるばってん、ゆかれんが」
「からいも畑がなあ、草とりに来てくれちゅうておめきよるばって、ゆかれんとばい」

と嘆く声を記録している。


自分の中にわだかまっている、いろいろなコンプレックスの感情が、今後どう変化するのかは分からない。

ただ、親鸞の「自然法爾」と、石牟礼さんの「他者との心溶け合う瞬間」という考えは、「成功しなければ」という思いに囚われた心とは、異なる世界観を開いているような気がする。
















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