先々週に訪れたJR川崎駅 |
数年前、雑誌『ビッグイシュー』で読んだダライ・ラマ14世のインタビュー記事の中で、印象的だった下りがある。
その号が今、手元にないので、うろ覚えだが、彼と記者とのこんなやり取りだ。
「(ダライ・ラマさんは)とても忙しいでしょうから、要点だけお聞きしますね」。インタビュー開始時、記者がこのように切り出した。
「じゃあ、インタビュー時間をもう1時間伸ばしましょう」。ダライ・ラマは、すぐにそう答えたという。
ノーベル平和賞の受賞者であり、チベット亡命政府のトップとしての政治・宗教的な責務を負っているダライ・ラマのスケジュール帳は、一般の人よりも多くの予定が詰まっていることだろう。
その中で、「時間をのばしましょう」とさらっと言える心の余裕。
仏教では「自由であること」を重視するが、「本当に自由な人間とは、こういうものかもしれない」と感服した。
まあ、事実は、ダライ・ラマの予定を管理する秘書にしわ寄せが行っているだけの話かもしれない。ただ、「願わくば、こんな余裕と気遣いを見せられる大人になりたいものだ」と思った。
無理できるようになったら、限界まで無理してしまう貧乏症
一昨日は、仕事中に頭痛がして、早めに切り上げた。このところ、プライベートで用事や勉強を詰め込み過ぎて、過労状態になっていたようである。自分は10代後半や20代前半のころ、大して運動をしていなかった。体が弱く、少し疲れると、すぐに体調が悪くなった。
30代になり、20代より衰えた部分はある。だが、ヨガをやっている今の方が、全般的に体力は付いている。多少の無理もきくようになった。
しかし、無理が効くようになったら、結局、無理がきくだけ予定を詰め込んでしまうので、やっぱり最後は体調が悪くなるのである。
こんな「時間貧乏症」とも言うべき自分は、「人生の余裕」的なものを身に付けることができないでいる。
例えば、朝の電車の中で、気分が悪い人を見かけたとする。そうした人の介助をしようとしている人を見て、「素敵だ」と感じる一方で、「関わりたくないな」という感情も強く動く。
朝の時間は、自分にとって貴重な勉強の時間だ。「オレが未来に投資するための貴重な勉強時間を奪うな」というわけである。
(そのくせ、もし自分が電車の中で気分が悪くなったとしたら、「誰か助けてくれ」と思うだろう)
先行きが見えない時代の中で
こうした余裕のなさは、自分の性格だけでなく、時代的な要素も影響していると思う。一昨年から昨年にかけて、ロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授が著した『ライフ・シフト 人生100年時代の人生戦略』というビジネス書が話題になった。
彼女の前著『ワーク・シフト 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図』と並んで、刺激的な本だったが、そこで書かれていたのは「これからの人生は不確かだ」ということである。
AIの発展や、地球環境のさらなる悪化によって、将来がどうなるか、予想できないことが多い。
『ライフ・シフト』が焦点を当てているのは、不確かな状況の中で、(しかも寿命が伸びている中で)どうやって生き抜いていくかという点だ。
この本を思い浮かべながら、ふと感じたのは、人生の余裕というのは「先がある程度見えている」状況の中で生まれたものだったということだ。
「先達がやってきたことを、オレも同じようにやればいい」「今日できなかったら、明日やればいい」
かつて、大人の余裕を持っていた人というのは、そんなところがあったのではないかと想像する。
昔の時代も大変なことは多かっただろう。ただ、その原因である政治の変動や、自然災害などに関しては、おそらく、ある種の諦めもあったのだろうと思う。
だから、ジタバタせずに受け容れる姿勢があったのではないかと思う。
しかし、今は「困難は自分で切り開く」「切り開けないのは自己責任」というプレッシャーが強い時代だ。
「何かをやりたい」「変えたい」という熱意を持つ人にとっては、良い時代だと思うし、こうした時代の流れ自体をそれほど否定しようとは思わない。
ただ、その中で、人生の余裕を持ちづらくなっているのも確か。
「先行きが不透明」という状況は、僕たちが生きている間はずっと変わらないだろう。その中で、どうしたら「人生の余裕」を持ち、「豊かな時間」を実現できるのか。
マザー・テレサだったか、「本当の平和は自分の心から始まる」といったことを語っていたように思う。平和にならない自分の心を省みながら、そんな言葉を思い浮かべてみる。
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