甲生地区から見える海 |
豊島で泊る
昨日(金曜日)は、仕事で香川県の豊島(てしま)に行き、ゲストハウスで1夜を過ごした。豊島は前回行ったのは5月。その際、豊島美術館やクリスチャン・ボルタンスキー氏の「心臓音のアーカイブ」「ささやきの森」といったアート作品に衝撃を受け、
「次回行くときは、この島に必ず泊まろう」
と思った。それが叶った形だ。
↓前回のブログ
【ヨガ男子の香川日記】「世界は美しい」と感じられる場所:豊島美術館を訪問
今回、予想以上に多くの方にお会いし、さまざまなお話をお伺いすることができた。
地域への愛のこもった話というのは、良いエネルギーを与えてくれるものだ。今回お世話になった方々に、改めて感謝したい。
(また、宿泊先のゲストハウスでは、子育て中のお母さん・お父さんたちの集まりがあり、たくさんのチビッ子と触れられて楽しかった。)
観光客の増加の両義性
今週末は仕事が詰まっており、あまり長く書けないのだが、1点、書き留めておきたいことがある。
豊島は、2010年に「豊島美術館」がオープンし、瀬戸内国際芸術祭の開催も伴って、一気に国内外の観光客が増えた。
それが移住者の増加や、島の活性化につながっている。
その一方で、もともと観光客の受け入れをあまりしてこなかった島のこと。当然、急激な観光客の増加に苦慮している面も多くある。
例えば、下調べをしてこなかった観光客が、島の不便さにクレームを言うこともあるようだ。
それに対し、ある方が「もともと『何もない』のが、豊島の良さなんじゃないのかな。あまり便利さを求められるのも、ちょっと違う気がする」といった話をしていた。
「何もないのがいい」?
豊島は今、「アートの島」として、直島と並び世界的に有名になっている。
でも、前回も感じたのだが、たとえば豊島美術館といったアートが示しているのは、僕たちが生きている「今・ここ」こそが素晴らしいということではないか。
アートは、それを再確認させてくれるための「装置」のようなものではないか、ということだ。
そんなことを考えつつ、今朝、少し早起きして、宿の周りを散歩してみた。
空では、優しく太陽が光っていた。昨夜の雨に濡れた木々が、風を受け、輝くしずくを降らせていた。
家の軒先では、朝顔の花が「こんにちは」と挨拶するように、かすかに揺れていた。
道端では、サワガニが顔をのぞかせたと思うと、しゅしゅっと逃げていく。
海では、カラスが楽しげに遊び回っていた。
緑に囲まれた道を戻りながら、「何もない、とはどういうことなんだろう」と考えさせられた。
※
現在も、ソーラーパネルの設置をめぐって、景観や自然を壊してしまわないか、住民の方々や業者の間で話し合いが続けられている。
「何もない」と言われる「普通の」自然の景観も、ただで守られているわけではない。そのことにも、改めて心に留めておきたいと思う。
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