【小説】瀬戸内の森の中で(前編)

2019年6月23日日曜日

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 東京からの苦いメールの後だった。道を見失ったのは。

 「山の頂上までは、10分くらいで行けますよ。町の人たちが最近、木を切って整備してくれたんです」。

 まだ40前の、柔和な顔立ちの男性オーナーは、そう言って微笑んだ。

 彼は今日、新規提案でそのカフェを訪ねたところだった。
 来る途中、海沿いの車道を抜けて、山を通った。夏に向かう太陽のもと、瀬戸内海はいつもより青かった。木々の濃い緑が、涼しい風を送っているようだった。

 女からのメールに気付いたのは、自販機で飲み物を買おうと停車したときだった。

 「実は、この前言えなかったんだけど・・・」。

 文章を見て、心拍数が早まるのを感じた。車を少し走らせると、また停車して、スマホに目をやった。そして、女の言葉を頭の中で反芻した。

 この土地への愛が染み出すようなオーナーが好きで、いつもはカフェに行くのが楽しみだった。
 しかし、この日は、メールを見た後の動揺で、ざるで水をすくうように、言葉が頭からこぼれ落ちていきそうだった。

 そんな彼の状態を感じ取ったのだろうか。仕事の話が終わった後、オーナーはおもむろに裏山の話を始めた。

 「山の頂上からはね、海と島がきれいに見えるんですよ。時間があったら、よっていってください」

 オーナーに礼を言ってカフェを出た後、さあどうしようと、心もとない気がした。

(今のまま、車に乗ったら、きっと事故を起こすだろうから・・・)

 自分への言い訳なのか、自然な気持ちなのか。判別がつかない感情を抱えたまま、彼の足は、裏山へ向かった。



 山は、広葉樹と竹で覆われていて、その中に、かろうじて道らしきものが見えた。
 本当にまだ、整備したてなのだろう。地元の人たちが草刈り機をうならせて、木や草を刈った際の草のいきれが、今も漂っていそうだった。

(俺と同じように、この町も道を見失っているのかもしれない・・・)

 道なのか、ただのすき間なのか、判別がつかない。そんな藪道をかき分けて進んでいるうちに、馬鹿げた表現が思い浮かんで、彼は苦笑した。
  夕方の太陽が、木々の間から赤い光を投げかけていた。風が木の葉を揺らすと、まるで森が微笑んでいるように思えた。

(帰ったら、営業計画を立てて、見積もりを出して、・・・)

 いくつもの思いが、重なり合いながら浮かんだ。

(彼女に対して、他にできることがあったんじゃないのか・・・)(誰かと一緒にいる力がないから、こうやって森を1人で歩いている・・・)

 彼以外、森には誰もいなかった。夕方の静けさの中を歩いているうちに、彼は、森を歩いていることを忘れ、心の暗みへ入っていった。


 やがて、頂上についた。眼下には、海と島が見えた。
 海は静かだった。しかし、1枚の布がたわむように、かすかに波立っていた。
 静の中の動。世界のしずかな揺らめきには、不思議な安心感があった。

  彼は、スマホで数枚、写真を取った。
 インスタで「いいね」をいっぱい貰えれば、気分も変わるかもしれない。皆にすごいと言ってもらいたい無意識が蠢いた。
 だが、スマホのネットアクセスを見ると、ここは圏外だった。内心、舌打ちした。

 美しい光景を目にしながら、彼の心は、再び営業計画と女の間をさまよい出した。
 
(自然なんて、結局、なんの意味もないんだもんなあ)

 気分を盛り上げるため、iPodで音楽でも聴いてみようか。ジブリのBGMメドレーだったら、切ない気分に浸れるかもしれない。
 でも、人工的なものに、今は、とても疲れてしまいそうだった。

 整理のつかない気持ちのまま、夕日が染みるその場を離れ、下り始めた。

(サボリの時間は終わりさ・・・)。彼は、次の営業計画を考えることで、彼女を頭から追い出そうとした。

 それから少ししてだった。道を見失ったことに気付いたのは。
 なんとなく、道らしいスペースを歩いていたら、たどり着けるだろう。行きだってそうしたんだから。
  しかし、それらしい道を通っていたはずなのに、いつのまにか道は行き止まりになって、木々が行く手を阻んでいた。

 森の魔物に、化かされたのだろうか。その瞬間、ふと不安が高まった。
 今、彼がここにいることを知っている人は、誰もいない。この山で何かあっても、誰も助けてくれないという事実が、彼に迫ってきた。

 「人間、30㎝の水で溺れることもあるんですよ」

 小学生の時、担任の教師がそう言っていたことを思い出した。
 こんな小さな山だって、どんな危険が潜んでいるか、わかったものじゃない。

 「孤独」という湿った感情ではない。もっと、無機質な「1人」だという事実に取り囲まれていることに、彼は気付いた。

  (つづく)

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