キラキラしていないグローバル人材の所感:「外国人って言い方、嫌いです」

2019年1月19日土曜日

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昨年の秋、仕事で北陸方面に行く機会があった。

米国人ライターの女性とともに、同地で働くオーストラリア人の方を取材。

それから、料理屋で地元料理「治部煮(じぶに)」なぞを頬張りながら、打ち合わせした。

彼女も僕も、忙しい中での出張だ。話し合いが終わった時は、クタクタだった。

そんな気怠い気分でお茶をすすっていると、ふと、彼女が尋ねてきた。

「●●さんは、なんでこの仕事をやろうと思ったんですか?」

「うーん、子どもの頃から外国に対する憧れがあったから、かな」

毒にも薬にもならない、当たり障りのないオトナの会話。

そんな積りで深く考えずに返答した。

すると彼女は、

「私、日本人がよく言う「外国」って言い方、嫌いです」

と、火のようなツッコミを入れてきた。こちらが驚いていると、

「外国って一言で言っても、アメリカとインド、ロシアだったら全然違うじゃないですか」

「なのに、日本人は十把一からげに「外国」っていいたがる。おかしいと思います」


彼女の言うことも一理ある。

国・地域が変われば、社会や文化も異なる。

「海外への何となくの憧れ」というのは、いかにも島国根性の日本人らしい述懐に聞こえるのだろう。

そうは思いつつ、彼女のツッコミに対してモヤモヤした気分になったのも確かだ。

というのは、「外国への憧れ」というのは、自分の中で、それなりに根拠がある感覚のように思えるからである。


自分の知らない世界と解放感


僕は、外国語大学を卒業した人間だ。

それを考えると、中学生・高校生くらいのときには、外国への関心が芽生えていたのだろう。

そのきっかけが何だったのか、先日、ふと考え事をしていて思い出したことがある。


「ネクラは禁止!」

中学生だった頃だろうか。

あるクラスメートが、このような発言をしたことがある。

まじめな話、重たい話、暗い話・・・。そんな話をする人間は、ダメ人間というわけだ。

これは、このクラスメートだけの発言だけでなく、学生全体を支配する空気だったと思う。

ただ、自分は、さまざまなコンプレックスに常に悩んでいるようなタイプだ。

そんな人間が、こんな発言をされてしまうと、もう居場所がなくなってしまう。

そんな鬱屈した気分の中、たまたま家の本棚で見つけた本に衝撃を受けた。

ロシアの作家、アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』だ。


『ワーニャ伯父さん』とは、ロシアの田舎に住む2人の主人公に関する物語である。

自分の理想のために青春の全て費やし、結婚もできないまま老いた50手前の独身男、ワーニャ。

その姪で、心優しく忍耐強いが、顔が醜いゆえに男から愛されないソーニャ。

この2人の恋などをめぐって、話は進行する。

この世界的名作の深みを、自分が理解できたわけではない。

ただ、苦しみながらも生きようとする主人公たちの姿に感動し、読みながら涙が出そうになった。


同時に、日本とはかけ離れた場所・時代の物語を読むことを通して、

「世の中には、価値観がまったく異なる世界が存在するのではないか」

と感じた。

それは、大きな解放感を伴っていた。

自分は、この場所ではうまく生きれないかもしれない。

けれども、この世界には、もっと自分らしく在れる場所があるのではないか。

チェーホフがきっかけで、僕は外国文学をよく読むようになった。

その中で、「外国」とは、そんな「解放のシンボル」に変わっていった。


矮小なる「グローバル人材」として



もっとも、

「”ここではないどこか”に行けば、問題が全部解決してハッピーになれる」

そんな幻想は、今はもうない。

どんな国にもそれなりに問題があるし、日本と同様、良い人もいれば、悪い人もいる。そんなものだと思う。

メディアの記事などでは、よく

「日本は●●国に比べて遅れている」

「日本は世界的に見て、すごい」

といった形で、日本と他国の比較がなされることがよくある。

ただ、結局それも、

「ある面では日本は優れているけど、他の面では他の国が優れている」

というだけではないか、という気がしている。

(非常事態が常に続いているソマリアのような国の場合、話は別だが)


ただ、

「今、自分が生きている世界が全てではない」

という認識。

それがあることで、今ここの生活を、楽にできること、変えられることも沢山あるのではないか。

そういう思いは、むしろ強まっている。


今、自分は さまざまな国の人と関わる仕事をしている。

もっとも、各国を飛び回って数億円規模のプロジェクトをバンバン決めてくる「グローバル人材」といったイメージとはほど遠い。

もっと小さな規模の仕事で日々悩んでいる、矮小なる存在である。

ただ、矮小なる存在なりに、できることはあるのではないかと思う。

自分が「外国」を通じて解放感を与えてもらったように、今度は、自分が「外国」から来る人に対して、解放につながるきっかけを提供することができたら、と思っている。


先日、欧米圏出身の方に送る英文メールで書いていた。

色々あって、厳しいスケジュールで仕事をお願いしなければならない。

なので、「I am sorry, but…」と言い訳を長々と書いていたのだが、同じく欧米圏出身の同僚に、

「日本人の感覚では丁寧に書いた方がいいと思うけど、英語ではそんなに長々言い訳しなくて大丈夫ですよ」

と笑われた。

まだまだ、学ぶことは多くありそうである。













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