初詣とインドの寺院:信じていない神さまに何を祈るか?

2019年1月14日月曜日

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デリーのイスラム教寺院、ジャマー・マスジット。静かに祈る人々の姿に深く心を打たれました

皆さん、初詣には行きましたか?

自分は昔、神社にお参りしないようにしていました。

「信じていない神さまにお願い事をするなんて、神さまに対しても、信者の方に対しても失礼だ」

そう感じていたからです。

(「そもそも神さまなんて、いないんじゃないか」という思いも、当然ありました)

友人付き合いで初詣に行く時は、いつも、どこかに心苦しさがありました。


ただ、最近は考えが変わり、神社にはよくお参りするようになりました。

他宗教の寺院にも、機会があれば行きます。

というのは、一般に開かれた寺院や聖地には、共通して「あること」を感じるからです。

年末年始にインドに旅行し、いくつかの寺院に参拝させていただく中で、このことをちょっと整理してみました。

一応、以下の記事の続きです。

「今年の抱負」を立てられない30代の抱負:天竺(インド)への旅に寄せて

上海で九死に一生? 不安と幸せの関係

デリー初日の1時間でヘトヘトに


「アナタは日本人旅行者? デリーはとってもアブナイ街だよ」

「ボクと一緒にいたら安全。ボクに付いてきなよ」

いったい何度、こんなことを言われただろうか。

インドの首都・デリーに到着した初日、町中を歩いていたら、道端の男たちから何度も声を掛けられた。

行きの飛行機内で読んでいた『地球の歩き方』によると、デリー中心部には詐欺師が大勢いるという。

こいつらも、明らかにその類だろう。

「 I love to walk alone. (一人で歩きたいから、ほっといて)」

その度に、そっけなく返し、足早に彼らを通り過ぎようとした。

しかし、それで諦めてくれないのがインドの詐欺師たち。

「じゃあボクも勝手に付いていくよ」

などと言い出し、10分以上、付きまとってくる始末だ(これはけっこう怖かった)。


こうした男たちから逃げ回って、カフェで一休みしようと思ったら、今度は隣に座っていた男から、

「アンタ旅行者だよね? インドはアブナイ国なんだぜ。オレがいい旅行会社を案内してやるよ」

などと話しかけられたりする始末。

さらに、空気はほこりっぽく、「プップー」というクラクションがひっきりなしに鳴り響く。

もう、少し歩いただけでヘトヘトになってしまった。

※これはあくまでデリー中心部の話です。インド全体がこんな感じだと誤解なさらないように。もっと田舎のハリドワールに行った際は、親切な人もたくさんいました。

シク教の寺院でひと安心


そんな中、道端を歩いていたら、豪奢な大理石の門を見かけた。

(これはシク教の寺院みたいだな・・・)

シク教のシンボルであるターバンを巻いた男たちが入っていくのを見て、そう思った。

「何でもいいから、とりあえずどこかに逃げ込みたい」

そんな心境だったので、とりあえず中に足を踏み入れた。


ごちゃごちゃした町中から、白い大理石の境内に入ると、空気感がふっと変わったように感じた。

寺院には、近所に住んでいる感じの人もいれば、遠方からの巡礼らしき人もいた。

多くの人が、和やかに笑っていた。

「誰も、自分にギラギラした目を向けてきていない」

本能的に、そんな安心感を覚えた。


寺院の中には、多くの観光客が立ち寄る庭園があった。

ここに腰を下ろし、少し休ませてもらった。

少し気分が落ち着いてから、辺りを見回してみると、庭園の端で、お椀に水を入れて参拝者たちに渡す女性の姿が目に入った。

(僕も欲しいな・・・)

デリー到着後、水を買えていなかったので、もう喉がカラカラだ。

ただ、

「異教徒の自分が受け取っても、大丈夫かな」

一瞬、そんな恐れが心をかすめた。

しかし、戸惑っている自分を見て、女性はニッコリ笑いながら水を差し出してくれた。

その女性の笑顔に、心が和らいだ。思わず仏教式に合掌して、頭を下げた。

それで、勢いがついたのだろう。

「この寺院を、もっと見てみたいな」

好奇心がふつふつ湧いてきて、奥にある拝殿にも入ってみた。

中では、祭壇で教父のような方がお経をあげていた。

周りにいる人々は、頭をついて祈ったり、少し遠巻きに座って静かにお経に耳を傾けている。

その光景を見ているうちに、デリーの喧騒に乱されていた心が落ち着いてくるのを感じた。

地下の洞窟のようなジャイナ教の寺院


この平和な空気感は、多くの寺院で感じたことだ。

中でも印象深かったのは、インド旅行の最終日に立ち寄った、ジャイナ教のディンガンバラ・ジャイン・ラール寺院である。

デリー中心部にあるこの寺院の拝殿の隣には、「瞑想センター」と書かれた場所があった。

スタッフの方に許可を得た後、その場所(地下)に降りてみた。

部屋は、洞窟を模したような装飾が施されていた。

その中に、仏像によく似たジャイナ教の開祖の像や絵画が置かれ、ろうそくを模した明かりが灯されていた。

「空気さえも止まっている」

そう思えるような静けさに、その場は満たされていた。

遠くから、夢のように、車のクラクションが聞こえる。

その中で佇んでいると、心の中をさまざまな想念が流れていった。

日本で感じていた悩み、焦り。そういったものも、遠くから、見つめるような感覚だった。

30分ほどそこにいただろうか。

「このような静かな場所を与えて頂き、ありがとうございます」

感謝の祈りが、自然と出てきた。

※なお、自分が今回立ち寄ったヒンドゥー寺院などでは、多少強引にドネーションを出すよう言われた場所もあるので、行かれる方は念のため注意を。また、施設内に入っていいかどうかは、職員の方に確認した方が良いと思います。

静かに心を見つめる場所

日本でも、こうした「静かな場所」は得難いのではないかと思う。

日本はもちろん、インドのデリーほど喧騒にまみれているわけではない。

けれども、仕事や人間関係の悩みといった「心の騒音」に満たされていることが多いのではないか。

そんなときに、静かな場所で心を落ち着け、「今、自分が本当に望んでいることは何か」を見つめてみること。

祈りの場というのは、宗教ごとに意味は異なるだろう。

でも、基本として、「静かに自分自身に向き合うための場」なのではないかという気がするのだ。

なので、最近、神社に参拝した時は

「自分の心を深く見つめる場所を与えていただき、ありがとうございます」

とまず感謝するようにしている。

その上で、

「〇〇に向かって努力をしたいと思います。どうぞ見守ってください」

「自分の大切な人である〇〇さんが幸せでありますように」

と祈っている。


付記:自分の宗教観について

「あなたの宗教は何ですか?」

こう問われたら、自分は「仏教徒です」と答えるようにしている。

というのは、仏教の基本的な教えである四聖諦と無常・無我(※)が、自分にとっては、より良く生きるためのガイドラインだと感じているからだ。

その一方で、キリスト教などの一神教、あるいは神道を含むアミニズムなどが掲げる神さまについては、倫理的には帰依しない(教えを自分の行動基準として取り入れない)けれど、存在する可能性はあると考えている。

厳密な無神論者の方には、よく分からないことを書いてしまったかと思いますが、そういう立場の人間の考え方の一つとして、読んでいただければ幸いです。

四聖諦(ししょうたい):「すべての苦しみには原因がある。逃げずにしっかり苦の原因と向き合うことで、人生をより良いものにできる」という教え(筆者の解釈です)。

無常・無我:「この世界のすべては、常に変わり続ける。そうした中で大切なのは、「今・ここ」にある命を精一杯生きること」という教え(筆者の解釈です)。



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