僕は旅が嫌いだった:日常と非日常

2017年10月3日火曜日

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旅行が嫌いだった。

最近、旅行関係のメディアで働いたりしている身分でありながら、こんな身も蓋もないことを書いても仕方ないのだが。

自分の周りにいる旅行好きの人々(僕の周りには、バックパッカーしていた人が本当に多い)に比較して、自分がいかに行っている国や地域が少ないか、痛感する。

もっとがんばれば、これまでの人生でもいろんなところに行けただろうに、と思うのだが、イマイチ、気が向かなかった。

なんでだったのだろう。
自分に問いかけてみるに、「旅行に行っても、得るものが少ない」という気がしていたからなのだと思う。


旅行に行っても得るものがない

僕の場合、子供の時から「生きることがそもそも苦しみである」と感じていたので、なんとなく旅行に行って、ふわっとした出会いや観光名所を巡っても、自分の人生に何にも足しにならない、と思っていたのだ。

(逆に、長期滞在をしてみたいという希望はそれなりにあった。
現地に住んでいる人たちの日常生活に触れることができたら。自分の人生の問題を解決するヒントが見つかるかもしれない。
そんな期待はあったのだが。
長期で時間がうまく取れないまま、ずるずると今まで来てしまった)

人間というのは、どんなところに行っても、結局はつまらない日常に戻ってこざるを得ない。
子供の時から、そんな諦めのような気持ちがあって、多分、非日常を体験するよりも、本でも読んでたほうがマシだし、そのほうが、効率よく知識を得られるという打算が働いていたのだと思う。

もっとも、これは過去の話で、最近は、そう思わなくなった。

非日常の体験が、日常をより生き生きとさせる作用があることに気づいたからだ。


非日常で、日常が生き生きとする

この前、鳥取に出張で行ってきたのだが、普段目にしない風景を目にすると、楽しいものだ。

例えば、ばあっと広がる田園風景と、その先にある雄大な大山。

僕が今住んでいる川崎や、仕事をしている東京では、まずお目にかかれない。爽快な開放感だった。

さらに、泥だらけになりながら山登りをして、撮影をしたりしたのだが、泥だらけになる機会などもないので、大変だけど、とにかく楽しかった。


出張に行く前は、ストレスがたまりまくっていたのだが、帰ってきて、次の日、溜まっている仕事に手をつけたら、すらすらと進んだ。

そして、3日間の旅だったのだが、羽田空港から夜、自宅前の駅に辿りついて、そこの花壇にあるオシロイ花を見て、ふと「おかえり」と言ってもらったような気がして、なんだか、久々に「帰ってきた」という感覚になったのだ。

(日常生活では、家に帰っても、「帰ってきた」という気はあまりしないものだ)


そんな、なんかさっぱりした自分に気付いて、「おお、これが柳田邦男が言っていた「ハレとケ」、ミハイル・バフチンのカーニバル論なんだな」と実感した。
(専門用語で恐縮ですが、つまり、非日常の経験が、日常生活でよどんだものを清めたり、あるいはかき混ぜたりして、新しい生命力を与えるという考えです)


「旅で新しい知見を得る」という、積みたて型の思考で旅に出ると、「役に立つ知見や情報が手に入らなければ、行っても意味がない」となる。

でも、「日常生活で溜まったケガレや淀みを祓うために旅をする」というのもいいのだと思う。
(昔の巡礼の旅なども、似たようなものかもしれない)


前に、和歌山の山の中に半自給自足の生活をしている人と話した時、彼が「年に似、三回、用事がなくても、東京か大阪に行くようにしている」と言っていたのが、今も心に残っている。

ずっと自然に触れているだけでも、自分の感覚が麻痺していくような感覚がするからだそうだ。

これから僕が、地方に移住しても、都会に住み続けるとしても、日常を豊かにする非日常、という観点が、どこかに必要なのだと思う。




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