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子どもが、道路でお絵かきをしていると、ふと「こう」という声が聞こえた。
見上げてみると、数羽の鳥が、空を飛んでいる。
興味を惹かれ、子どもはひとさし指で「1,2,3,4,5、6・・・」と鳥を数え出した。
やがて、その鳥たちは通り過ぎていった。
と、再び後ろから「こう」という声が響いた。
振り向くと、今度はもっとたくさんの鳥が、三角形の編隊を作りながら、美しく空を駆けていた。
子どもは口をあけて、笑いながら、その後を追って駆け出していく・・・
日常の中で見つける奇跡
これは、マンガ『よつばと!』12巻の冒頭のシーン。
映画やアニメを意識した表現技法だと思うが、このシーンを読んだ時、ふと、胸を深く打たれたような気分になった。
この世界がただ存在することが、美しくて、嬉しい。
そういう感覚が、むき出しのままで表現されているような気がしたからだ。
『よつばと!』は、小岩井よつばという5歳の女の子が、日々接するさまざまな体験をつづったマンガである。
近所の家でクーラーを使ってみる、ピザを注文してみる、道路にお絵かきをしてみる。
壮大なストーリーはまったくなく、出て来るのは、誰でも経験してそうなことばかり。
でも、その一つ一つに、よつばの感動や驚きが込められている。
(もっとも、どの巻を読んでも同じようなので、ブログに書いていて恐縮だが、いまだに半分くらいしか読んでいない。
どこか一つの巻を読むと、感動でお腹いっぱいになる。。)
木々が風に揺れるのを見る喜び
子どもの時、この『よつばと!』と同じような感動を味わったことがある。
宮沢賢治の短編童話『虔十公園林』という作品を読んだ時だ。
『虔十公園林』は、虔十という子供が植えた杉の木が、彼の死後もすくすく育ち、やがて子どもたちの遊び場となり、人々の心を潤す、という話。
この童話の冒頭の部分を目にした時、ふっと、嬉しくて笑いたくなった。
「虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。
雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をバチバチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせました・・・・(中略)・・・・・風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑えて仕方ないのを・・・・(中略)」
僕も、子どもの時、風が吹いて、街路樹の葉が波のような音を立てるのを聴くのが好きだった。
だから、この虔十の話を読んだ時は、自分の同志を見つけたような気になった。
(もっとも、こんな虔十は、まわりの子どもたち皆から痴呆だと思われ、馬鹿にされているのだが)
いつでも手の届く救い
この世界が存在することが美しく、わけもなく嬉しくなるという感覚。
これは、ふとした瞬間に誰でも感じられる、根源的な感受性ではないか、と思う。
貧しい時も、嬉しい時も、苦しいときも、楽しいときも。
ナチスのアウシュビッツ強制収容所を経験した、ヴィクトル・フランクルという有名な精神科医がいる。
彼の収容所体験に関する記事を読んだ時、印象的だったことがある。
強制収容所の中で、もはや生き延びれる希望(生き延びようという気力も含め)をほとんど失っていたある日、彼や他の囚人たちはふと、夕日を見つめる。
そして、「世界はなんて美しいんだ」という感動で、数分間、その場に釘付けになったという。
(この引用元となったフランクルの著書『夜と霧』を未だにちゃんと読めておらず、他人の引用の孫引きで申し訳ないのだが)
絶望的な状況であれ、豊かな状況であれ、世界の美しさは、僕たちのとなりにいつもある。
こうした感覚があったところで、会社の営業成績の向上につながるわけではない。
学校のテストの点数が良くなるわけでもない。
飢えなどに苦しんでいる人に、食料をもたらせるわけでもない。
けれども、人生がつまらないとか、逆に人生が苦しくて不安だと感じている時。
こうした次元があると思うと、救いは常に近くにあるような気がしてくる。
世界の美しさの次元と、生活の次元と。
この2つが、不可思議な形で浸透しあっていることに、生きることの神秘があると思う。
『よつばと!』を読むと、言葉にうまく表せないこうした感覚を、とてもうまく表現していて、なんだか言いようのない嬉しさを感じる時が多くある。
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