明日は、衆議院議員の総選挙の投開票である。
僕には、ある種の”政治アレルギー”があり、この10年ほど、政治についてしっかり考えることができなかった。
今回の選挙と直接的な関係はないのだが、自分の今後の生き方を考える上で、改めてこの”政治アレルギー”を見つめ直したいと思い、このブログを書いている。
人間性の否定
僕が高校2年生の時、米国の同時多発テロ、9.11が起きた。
この時、僕の高校では、北京への修学旅行が中止になった。
それからあっという間に、アフガニスタン戦争が始まった。
その約一年後、僕が高校を卒業した春には、イラク戦争が勃発した。
これは、米国が石油利権のために起こした戦争だというのが、もっぱらの見解だった。
米国が使う劣化ウラン弾などで、どれだけ現地の人々が苦しんでいるか、連日、報道が行われた。
何かをせずにはいられなかった。
そこで、一人でネットを調べ、日比谷公園のデモに参加した。
その後、大学に入ってから、反戦デモなどに、しばらく参加していた。
(この時は、広島・長崎の原爆に関する記念式典や、沖縄の辺野古にも行ったりした。
大学の友人たちに、デモの話を得々とし、誘いもした)
大学の友人たちに、デモの話を得々とし、誘いもした)
だが、こうした集まりに行く度に、言いようのない寂しさと孤独感を感じた。
ある政治団体に半ば強引に引き込まれ、しばらくその活動に接することがあったが、深く関わるほど、
「自分は、政治的な目的を叶えるためのコマに過ぎないのだ」
と感じるようになった。
民主主義社会における政治的なパワーとは、数で決まる。
そのため、政治的な効果を発揮するためには、自分個人が感じている違和感などは捨象して、「自分はこの人たちと同じ意見だ」と表明することを求められる。
このことが自分には、息苦しくて仕方なかった。
「人として、優しさをもって生きるべきだ」
と訴える団体の中で、なによりも自分自身の人間性が否定されているように感じられたのだ。
(ひところ、柴田翔、高橋和巳など、1960年代の学生運動に関する小説を読んでいたが、「党の細胞」といった表現が出てきて、ひどく違和感を感じたことがある)
子供の時、テレビでアフリカの飢餓に関する話などを見ながら、
「先進国生まれである自分が豊かな生活を享受できるのは、おそらく、何らかの形で途上国の貧しい人々を搾取しているからなんだろう」
と、ずっと罪悪感を覚えてきた。
それゆえ、自分がコマのように扱われることに対しても、
「自分のような豊かさを享受してきた人間にとって、当然の罰なのだ」
と思い込もうとした。
だが、この政治団体との関わりが非常に苦しかったこともあり、結局、ほどなくしてデモなどには行かなくなった。
体と心が拒否反応を起こして、行けなくなったと言う方が近い。
弱さを受け入れ合える社会
その後、大学でニーチェやドストエフスキーなどを少しばかり読む中で、「正義」の持っている曖昧さを知った。
「平等」「自由」「平和」など、一般的に正しいと言われていることに関しても、その正義を究極的に基盤付けるものは存在しないのだ。
政治とは、異なる利害を持つ者同士が、少しでも自分たちの利益を多く得るために戦う生々しいぶつかり合いだと思う。
そういう意味で、政治とは根本的に、さみしいものだと思うのだ。
今回も僕は、自分なりに考えて投票しようと思うが、それが他人にとっても正義である自信はない。
ただ、なんとなくの方向性として、「すべての人間を、人間として扱う余地がある社会」に向かってほしい、という思いを持っている。
貧困などに対する社会保障はもちろん大切だと思うが、
「自分が一人の人間として扱われていない」
という状況が、人間にとっては、一番きついことなのではないか、と思うので。
デモに行っていた時、当時の首相だった小泉純一郎に対し、「戦争好きの、悪魔のような人間だ」といった批判があった。
彼の不倫騒動のようなものをあげつらう記事を持ってきた人もいた。
ただ、僕は学級委員長などを経験したことがあるのだが、皆の上に立たなければならない人間の苦労などを多少なりとも経験したことがある者としては、
「政治家にも、疲れや悲しみ、個人が背負っている悲哀などがあるだろう」
と感じたものだ。
僕が望んでいるのは、こうした”弱さ”を大切にできる社会なのだと思う。
もちろん、政治家だけでなくて、貧困層、中・高所得層の人々、そして日本以外の国の人々も含めて。
異なる政治的な立場の人間を、その政治信条を批判するのはいい。
だが、「相手も、悲しみを抱えた一人の人間である」という憐れみが、どこかにあって欲しいと思う。
ここで書いていることを、具体的にどのように形にすればいいのか(例えば今の北朝鮮や自衛隊、憲法改正の問題など、さまざまな利害関係、思想信条、センチメントが絡み合う問題)、正直なところ、まだうまく見えていない。
ただ、今回の選挙の結果がどうあれ、自分が心がけておきたい、政治を考える基盤にしたいこととして、このブログに記している。
はじめてコメントさせていただきます。
返信削除こうした過去の回想を読ませていただくと同じ時代を生きていたのだなあということを実感します。
そして、同じくらいの歳に高橋和巳を読んでいたということを今知りました。でも、私は昔は自分が自分であることすなわち孤独であることを放棄したいと考えており、ユングのいう共通無意識の中に溶け込みたいと思っていました。
だから、むしろある大義のためのネジとなることは歓迎しておりました。そこから、ソビエト芸術を勉強したいと考えるようになったと思います。
でも、それって所詮はまやかしで人間は自分自身以外にはなれないと大人になった今では思います。
その上で、弱さを大切にできる社会はすごく大切で、ぜひとも実現しなければならないと思います。
削除ちあきさん、コメントありがとう!このブログの初コメントです(笑)
僕も、政治的な関与の経験を通して、自分が「大義のためのネジ」になることに耐えきれないと感じ、自分の生き方を見直すことになりました。
僕は、少なくとも今の段階では、自分の幸せが大切だし、自分が幸せにならないと、他人も幸せにできないのでは、と感じています。
マザーテレサは、「世界の平和は家庭から始まる」と言っていたと思いますが、その意味を考えているところです。
もっとも、僕の場合、仏教に興味があることもあり、道元に言った「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」、
つまり、自分が自分であることを貫くことを通して、人間だけでなく自然も含めた、世界全体とつながる道があるかもしれない、という気もしています。
あと、「大義のためのネジになる」というのは、年齢的なものもあるかもしれません。
子供を育てている人、あるいはある程度の年齢に行った人の場合、自然な形で、
「自分の人生は、この事業を実現させるためにある」
「この子供のためにある」
という心持ちになるのかな、と思います。
(あるいは、戦争を経験するなど、苦しい時代を生きてきた人ほど、こうした気持ちになるのでは、
という気がします。)
もっとも、それが、他者から自己犠牲を強いられるような形では、絶対あってはならない、と思います。