キラキラした夢ではなく、日常を少し良くすること

2017年9月30日土曜日

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先日、あるイベントで歌を聴いていて、「夢に向かって進もう」といった意味合いの歌詞が出てきた時、少し引っかかりを覚えた。

「夢」という言葉に対して昔から抱いてきた、ある種の戸惑いを、思い出したからだ。

(歌手の方のために言っておくと、彼女の歌声はとても素敵だった。
素敵だった分、何だか考えさせられてしまったのだ)


小学生の頃の作文

小学生の時、授業で「将来の夢を書きましょう」という作文の宿題が出た。

大人の顔色を読む傾向の強い子どもだった僕は、とりあえず「サッカー選手」と書いたように覚えている。

これは、大人が期待する「たわいのない夢」の典型事例じゃないかと思う。

こう書けば、大人は皆が安心して、「子どもらしい夢だな」と微笑ましく思い、それ以上追求はされない。
(その分、自分も本気で目指す必要がない)

ただ、自分がそう書いたのは、面倒事を嫌がる打算があるだけではなかった。

当時の自分には、「夢」という呼び方でイメージされるような、キラキラした印象の何かを、本気で実感として持つことができなかったのだ。

そして、その感覚を、どう表現していいか、分からなかった。
だから、適当なことを書いて、ごまかさざるを得なかった。


人生というのは、楽しいことがあっても、すぐに過ぎ去ってしまうものだ。
花火はきれいだけど、一瞬光って消えてしまう。
後には、また、苦しい日常が戻ってくる。

どんな仕事に就こうと、有名になろうと、大きな事業を成し遂げようと、つまるところ、人生の戻るところは、この、苦しい日常でしかないのだと思う。


それに、夢というのは、口甘い言葉だ。
なんだかキラキラしていて、言葉に出すと美しく聞こえる分、軽々しく使われすぎている気がして、それへの反発もあったのだと思う。

(もちろん、中には真剣に夢を持ち、それを追っている人もいる。
そうした人は、これは全く当てはまらないけれど)


大人になっても夢が分からない

先ほどの歌を聴いていて、そんなことを思いながら、今の自分自身を省ると、この年齢になっても、「夢」という言葉を、やっぱり実感としてうまく捉えられていないなあ、と気付いた。

子供の時より、多少自分の視野は広がったのでは、と思うのだが、そこから考えてみるに、それは社会状況もあるのでは、という気がする。


僕が、貧しい国や家庭に生まれていたら、
「将来は、金持ちになる」
「ベストセラーをバンバン出して、成功を収める」
といった夢を描いたかもしれない。

また、戦後復興の時代などであれば、
「ボロボロになった故郷を、キラキラした高層ビルの立ち並ぶ大都会に変えてやるんだ」
と息巻いたかもしれない。


発展途上国に行った人などと話すと、「途上国には、日本にはないエネルギーに溢れている」という話が出ることが多い。
事実、それはその通りだと思う。

だけど、高度経済成長期を通り越した日本に住んでいる自分の場合、なんだかそうしたものを求めるのは、実感として、うまく身体とマインドが付いていかないなあ、と思う。

他の人から、
「外貨をたくさん稼いで、税収を上げないと、日本の社会保障が成り立たない」
「日本にも、貧困家庭が増えている」
といった話を聞くと、うなずきたくなるのだが。

でも、世界第3位の経済大国でこんな状況であれば、「金を稼ぐ」やり方だけで、世界が幸せになるのは、まず無理だろうという気がしてくる。

かつてバブルの時代には、札束で相手をひっぱたけるほど、日本は金があったらしいが、
またそれを繰り返せばいいのか、と考えると、なんだかゲンナリしてきて、キラキラした夢を持つ気になれなくなってくる。


「Something better」を求める自分を見つめる

ただ、だからといって何も目指していないのか、というと、「そんなことはない!」と言う、もう一人の自分の声が聞こえるような気がする。

自分が今、何を目指しているのか。
自分を省みてみると、自分は無意識のうちに「自分がより良く生きていける方向に、進んでいく」ように、日々、生きているのだと思う。


人生には、ゴールというのはないし、あるとすれば、死ぬ時なんだろう。

どんな地位を手に入れようと、お金を手に入れようと、人生は生きている限り続いていく。
そして、生きている限り、人間は変化を続けていく。

ただ、この変化の中には、「今より少し、幸せになれればいいな」という願いが、それとなく働いている。


前に読んだ、ダライ・ラマの『Art of happiness』という本の中に、
「人間は誰でも、Something betterを求めているものだと思う」
という言葉があった。

このSomething betterを求める働きというのは、自分の生命の働きそのものなのではないか、という気がする。


子どもの時から学生時代にかけて、人生を「虚しいな」と思い続けてきた。
人生の基本にあるのは苦しみだ。
どんなに楽しいことがあっても、それが終われば、苦しい日常に戻ってくる。
その繰り返しに過ぎないのだろうと。

だけど、今は、苦しみも含め、今、ここで生きていること、少しでも生活を、人生を良くしようとするジタバタしている自分自身の在り方に、耳を澄ませてみたいと思う。

その先に、「自分が何をすればいいのか」「どう生きていけばいいのか」という答えが見えてくる気がするので。

迷える30代のボチボチな日々はまだまだ続きます。





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