話さなくてもいい場所でこそ、本音が話せる

2017年8月20日日曜日

ヨガ・マインドフルネス

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前に、吉本ばななの『デッドエンドの思い出』という小説を読んで、衝撃を受けたことがある。

これは、失恋で傷ついた女性が、友人の助けを借りて立ち直っていく様を描いた作品だ。
その中に、こんなシーンが出てくる。

「幸せってどういう感じなの?」

公園の芝生に座りながら、二人がこんな話をしている。
「ミミちゃん(主人公)はどうなの?」
と問われた主人公は、自分の中に何かが思い浮かぶのを待つ。
5分くらい黙って、ただ並んで足を芝生に投げ出している。

そうして、ぽつりと「私は、のび太とドラえもんを思い出すな」と語り出す。


当時、僕は大学生だったが、「5分間黙ったまま待つ」という二人の関係性を読んで、「さりげなく書いてるけど、これ凄いのでは」と感じた。
会話をする時に、そんなに相手を待つということが信じられなかったからだ。

自分が自分に戻る場所

『デッドエンドの思い出』について思い出したのは、先日、月一のマインドフルネス瞑想会に出た時だった。

そこで、法話を担当するアン・フーンさんから、

「『何かを話さなければならない』
『話し続けないと他人とつながることができない』
と感じている時、人はたいてい緊張しているものです。
けれども、ここは、誰かに何かを話す前に、まず自分が自分に戻るための場所です」

と言われた。

実際、マインドフルネス瞑想会では、会の終わりに参加者が今日の感想をシェアする時間があるが、
「話したくなければ話さないでいい」
「ただ、沈黙を味わいましょう」
と言われる。

誰かと一緒にいるけど、話す必要はない、という場所なのだ。

沈黙は非生産的?

他人と話している時の自分を振り返ると、間断を置かず喋り続けたり、相手に質問を投げ掛け続けたりしていることが多いことに気付く。

自分の中には、沈黙することを恐れる気持ちがある。
黙っていると、話に退屈しているようにに思われ、相手を傷つけてしまうのではないか。
そんなが不安が、無意識に働いているのだと思う。


あるいは、もっと多いのは、「話していないと、非生産的だ」と感じることだ。

話すと言う行為は、基本的には情報の交換だ。
そう考えると、できるだけ早く、効率的に話をすることが必要となる。
より多くの情報を交わせば交わすほど、生産的に思える。

あるいは、より多くの情報を引き出すような「うまい会話」ができないと、相手にバカだと思われるのではないか、といった意識も働いているのだと思う。

(世の中には、会話術や質問術などに関するビジネス啓発本がたくさん出ている。
いかに相手から情報を引きだすか、いかにスマートな会話をするかが、「できる社会人」というのが、一般的な認識だと思う)

賞味期限が切れた言葉

もちろん、仕事の場面などで、効率的な情報交換が必要な場合は多くあると思うし、それを否定する気はまったくない。

でも、急いで口に出される言葉は、自分本位ではなく相手に合わせた言葉であったり、「賞味期限が切れた言葉」の場合も多いのではないかと思う。

言葉を紡ぐというのは、自分のもやもやした感覚を整理する行為だ。
そして、すぐに出せる言葉というのは、その人の中ですでに明確な形を取るようになったものだ。
それは、裏を返せば、自分の中で「すでに終わったこと」だったりもする。

前に、ある起業家関係の集まりに参加した時、ある人が、
「これまで、”自分のやりたいことをやるべきだ”と多くの人に言ってきた。
でも、今のように猛スピードで動いている中で、時々、自分自身が本当にやりたいことをやっているのかが分からなくなる時がある」
と語っていたことを思い出す。

もちろん、時間がたっても変わらない思いはあると思う。
だけど、生きるということは、変化を続けることだ。
そうした中、発する言葉が、自分の”今”から離れてしまう場合もあるのではないか。

「便利な社会」ではなく「幸せな社会」に

「話したければ話せばいい。
その時はしっかり聞いてあげる。
あるいは、話せるまで待ってあげる。
でも、話したくなければ、話さなくてもいい」

そんな関係性をお互いにつくり出す場であってこそ、初めて、今、生きている自分の実感に近い言葉を出すことができるのではないか。

スピードが求められる社会で、こういう場を作りだせる機会はあまりないと思う。

だけれども、生きる意味だとか、幸せだとかいったものは、効率的な情報交換とは少し異なる位相から現れるように思える。

その上で、単に「便利な社会」というだけでなく、「幸福な社会」というものの在りようを考える時、こういうものに意識を向けることが大切ではないか。



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