好きなことをやっているのに寂しいのはなぜか?:「やりたいこと」と他人の評価

2019年2月11日月曜日

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片思いの恋愛みたいに、自分の気持ちは、自分の中だけで完結しない。

だから難しいんだよなあ。

そう感じることが、よくあります。

1カ月ほど前、東京のJR有楽町駅の近くを歩いていた時、道端でギターを持って歌っている男性が目に入りました。

彼の隣の看板には、


「小さい頃から武道館を満員にするのが夢だった。
もともとは会社員だったけど、人生は一度きり。
やっぱり夢を追いかけたい。
だから仕事を辞めた。
こんな自分を応援してほしい」


といった内容が書かれていました。

はっきりと読みやすい字体と文字の大きさ。「誰かに伝えたい」という気持ちが明確に表れた書き方に、好感を持ちました。

ただ、


「武道館を自分の音楽で満員にしたいのが、自分の夢」


この部分にちょっと、「オメーの勝手なエゴに、なんで他の人間が付き合わなきゃならんねん」そんな感じがしたのも事実です。

(まあ、そんなことをグチグチ言う客は、向こうも願い下げだと思いますが)

せめて、

「自分ががんばることによって、周りの人にも夢を与えたい」

くらいは言ってほしいな、というのが正直な感想でした。あまりにも、自分のエゴだけが主張されているように感じられたので。


ただ、そう考えたとき、「オレも同じかもなー」と思いました。

このブログは、もともと自分の精神の安定のために書いている。つまり、自分に必要だからやっているもの。

でも、やっぱり、たくさんの人が読んでくれれば嬉しいし、あまり読まれないと寂しい(あんまり沢山の人の読まれると、それはそれで怖くなるのですが)。

別にお金をもうけるわけでないけど、やっぱりそうです。

そういう感情って、一体何なのか。自分の中で、うまく整理がつかないので、一度書いてみることにしました。

「やりたいこと」の3分類:他者評価の観点から

そもそも、「やりたいこと」とは、何なのか。

「他人の評価」という観点で見るとき、3つに分類できると思います。

①他者評価型の行為

「やりたいことを仕事にする」。

就職・転職サイトなどでよく見かける文言ですね。

プログラミングが好き。ものづくりが好き。お客さんと話すのが好き。人によって何が好きかは異なるけど、それを「仕事」として一つの形にする。

ただ、それでお金を稼ごうとすると、他者の評価を必然的に意識せざるを得ません。なぜなら、お金というのは、他人のニーズに応えるがゆえにもらえるものだから。


お金を稼ぐ仕事以外に、NGO活動なども他者評価が重要かと思います。

他者から「賛同したい」と思ってもらえなければ、社会的インパクトを生み出せないからです。


ここでの問題は、往々にして「金を稼ぐこと・評価を受けること」に次第に比重が移ってきて、「自分の好きなこと」から離れてしまいがちなこと。

「やりたいこと」と「他人から求められること」のバランスをうまく取れるかが、安定して続けるカギになるかと思います。

②自分完結型の行為

「やりたいこと」は、必ずしも他者評価が必要なものだけではありません。

「海外旅行行って楽しかった」

「美味しいものを食べて幸せな気分になった」

「スポーツをやっていい汗流してさっぱりした」

これらは、自分の快楽のために行うものです。

他人がどう評価しようと関係なく、むしろ、他人に知られないようにこっそりやった方が楽しいことも多くあります。

こうしたことをやっている時が「いちばん自分らしくいられる」と感じられる人も多いかもしれません。

③どっちつかずの行為

ただ、「やりたいこと」には、①や②のように、位置づけがはっきりしていないものがあります。

これは、主に芸術的な表現活動に見られると思うのですが 、「自分が好きでやっていることだけど、成果物を他人に見せるもの」ですね。

僕は学生時代、演劇をやっていましたが、学生演劇は、この最たるものだと思います。

自分たちが好きにやっていることだけど、他人にも評価してもらいたい。で、いったいどちらが重要なのかは、やっている本人たちもよく分からない。

(プロの役者や演出家を目指す人は、話が別ですが)


満たされない承認欲求?

この③は、ある意味、真水と海水が交じり合う汽水域のような精神状態だと思います。

「他人から反応を得たい」という感情と、「自分らしい・自分ならではの表現したい」という感情が入り乱れている。

なぜこうした状態になるのか。

一つ考えられるのは、満たされない「承認欲求」の叫びなのではないか、ということです。

誰かに必要とされる、価値ある自分でいたい。

そうでないと、世界に自分の居場所がない気がする。

なので、他の人にはできないこと、「自分だからできること」を証明する必要がある。

特に、「不特定の大勢の人に認められたい」という感情が先走っている行為というのは、そんな感情が背景にある気がします。


「好きなことだけに時間を使いたいから、これを仕事にしたい。でも、自分にできるかどうか迷っている」という人もいるかと思いますが、その場合、かなり現実的な形で収益の計算などをすると思うので、不特定多数の人から、とにかく評判を得たいといった形にはならない気もする。


「”人と人の間”に生きているのが人間だ」

とよく言われますが、その一方で、

「結局、自分はどこまでいっても一人だ」

という側面もあると思います。

自分と他人の間を振り子のように揺れながら存在している。それが、結局、人間てものじゃないかと思います。

で、この他者評価型にも自己完結型にも成り切れていない「やりたいこと」は、この振り子状態を、一番明確に示しているのだと思う。

ただ、その分、変化の可能性をたくさん含んでいると見ることもできると思います。

これを考えると、なにかクリエイティブなものが見えそうな気がします。


先日、岩手に行った際に、久々に大量の雪を見ました。

雪がつくる景観は、魔法のように神秘的な美しさに満ちていました。

雪も花も、誰かに見られるために美しく装うわけではない。

ただ、ありのままに存在するだけで美しい。

そうした自然に対して、憧れる気持ちがある。

でも、「人間は、そんなふうに生きられないよ」と否定したくなる気持ちもある。

人間の心は一つではなく、いくつもの欲望や思いが絡み合ったりぶつかり合ったりして、自己分裂と統合を繰り返しているものだと思います。

それとどう付き合っていくか。そんなことを考えました。






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