先週、有楽町で見かけたストリート・ミュージシャンについて書きました。
好きなことをやっているのに寂しいのはなぜか?:「やりたいこと」と他人の評価
彼は、こんなメッセージボードを掲げて歌ってました。
「自分の音楽で武道館を満員にしたい」
「その夢を追いかけるために仕事を辞めた」
「こんな自分を応援してほしい」
それに対して、自分は、「”武道館を満員にしたい”というのは、勝手なエゴに過ぎない。他人は関係ないじゃん」
「せめて『自分の歌で他の人にも夢を与えたい』とか、もう少し他人目線で書けないか」。そう綴ったのでした。
ところが、この点に関して、友人から
「他人に夢を与えたいなんて、そんな”上から目線”の方がイラッとすると思う」といったコメントをもらいました。
ハッとしました。
自分には、無意識のうちに「他人のためにやることこそ正しい」という思い込みがあった。でも、それが必ずしも皆にとって正しいわけではない。
なので、自分の感じたことについて、もう少し深く見つめてみました。
夢追い人に感じた苛立ちと淋しさ
のっけから批判的な話を書きましたが、僕は、必ずしも彼に、否定的な感情だけを感じたわけではありません。むしろ、自分を夢に向かって、批判を恐れずに人前で歌う姿。その勇敢さに深い敬意を感じました。
その上で、彼に感じた違和感はなんだったのか。これは2点あります。
①ビジネス的でない態度だから
「物事は、基本的に他人に役立つようにすべき」
こういう自分の思い込みは、自分がどっぷりビジネス社会に浸かっていることが影響していると思います。
ビジネスというのは、基本的にクライアントのニーズに応えてお金をもらうもの。
その点から見ると、自分のやりたいことの「押し付け」に見える態度に、違和感があったのです。
ただ、アートの世界は、ビジネス的発想だけでは面白いものを創れない。
考えてみれば、何でもかんでもビジネスの発想を押し付けなくてもいいと思います。これは、自分も反省するところでした。
②コミュニケーションの断絶
僕には、「他者と温かい関係をつくること」に憧れがあります。
これは、子どもの時に浴びるほど読んだ少年マンガの影響も大きい。
少年マンガでは、「努力・友情・勝利」を金科玉条として掲げています(いわゆる「ジャンプイズム」ですね)。
もちろん、現実はそんなもんじゃないってことは、人生経験が多少あれば分かる。でも、「温かい関係をつくることこそ、人としての正しいあり方」という思い込みは、そう簡単には消えない。
その上で、彼の
「オレの夢は武道館を満員にすること。だから応援して」
というのは、あまりにもコミュニケーションが一方的で、双方の「通い合うもの」が断ち切られている気がしたのです。
別に、プロを目指すミュージシャンと個人的な関係をつくりたいわけではない。ただ、彼のそうした表現に、自分の淋しさが呼び起こされる側面があったのだろうと思います。
「正しさ」から外れて、どっちも結局は「エゴ」だと考えた時、他者とどのようなつながりがありうるか?これは、今後、もう少し考察を深めてみたいと思います。
他人を応援する「ファン」の4つのあり方
こんな分析をしつつ、そもそも、他人を応援する「ファン」としての態度にはどんな形があるのか。おまけで考えてみました。ちょっと思いつく範囲で、4つあると思います。
1,その人の作品が単純に好き
僕はアイスランド出身のミュージシャン、ビョークの創り出す神秘的な世界観が好きです。
(最近の作品は聴いてませんが、少し前の曲はよく聴いている)
なので、現実にビョークがどんな人であるか、それほど関心はありません。
アーティストにありがちな不品行をしていようと、「芸術家ってそんなもんだよね」くらいで流せる気がします。
2,自分の模範としたい
(故人で恐縮ですが)僕は、ジョン・レノンの「ファン」を勝手に自認しています。
それは、彼の音楽だけでなく、生きる姿勢に心打たれるものがあるからです。
「この人の音楽を聴いていると、オレも頑張ろうって思える」
そんな感じですね。
まあ、生き方だけでなくても、「ミスチル(Mr.Children)を聴いてて、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる」という人、一定数いるのではないかと思います。僕もその一人です(笑)。
3,淋しさを埋めたい
これが、ある意味、もっとも難しい問題だと思います。
虚しさや淋しさを埋めるために、アイドルの追っかけをやる。
これは、「気晴らし」「ストレス解消」の範囲に収まるなら、問題はない。
ただ、以下の記事にあるようなAKB48の追っかけの話を見ていると、正直、そうとう大変な気がします。
【依存~歪んだアイドル崇拝(1)】
「AKB商法」 ファン暴走…のめり込み、ストーカー・万引き
(産経West)
こういう形で、自分の淋しさを癒そうとしても、「自分は結局、彼女たちのサイフに過ぎない」という意識から逃れられないのではないか。
渇きを癒そうとして塩水を飲んでしまうように、余計に渇きがひどくなる。それでもやらざるを得ない。
そんな切実さを感じて、難しいなと思ってしまいます。
ただ、「押しメンを応援するイベントを自分で企画する」といった形に持っていくと、ちょっと違うのかもしれません。
金を払ってCDを買うだけでなく、自分の内なる創造性を発揮し、推しメンを支えるイベントを、ビジネスとしてやってみる。
相手に一方的に搾取されるのではなく、双方が利益を得られる形をつくる。
こういう形で、「アイドルと一緒に何かをする」という並列の関係になると、淋しさの癒やしがやってきそうな気もします。
4,社会的意義があるから応援したい
ただ、「自分は相手のサイフになっている」場合でも、淋しさが問題とならないケースもあります。
例えば、NGOといった社会貢献団体への寄付を行う場合。
「この人・団体が目指す世界を実現するために、自分も協力したい」
「でも、直接、活動に参加する時間はない」
「だから、せめてお金を出して、活動が継続できるよう支えたい」
こんな形だと、お金を出すだけでも満足できるんじゃないか、と思います。
(その分の社会的インパクトを出してほしい、とは思いますが)
※
いつもながら、あまり答えらしい答えは出ませんでした。
でも、とりあえず思考の過程として、書き記しておきたいと思います。
なお、自分の考察のために、冒頭のストリート・ミュージシャンの方に関して、批判的な面ばかり書いてしまったことに、お詫びしたいと思います。
彼に対しては、まず第一に自分のやりたいことに勇気を持って踏み出している姿に、深く心を打たれるものがあったことを改めて強調したい。そして、深く物事を考える機会を与えてくれたことに感謝を捧げたいと思います。
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