神奈川県浦賀の観音崎 |
夫婦別姓問題と「自分ごと」
先日、友人の紹介で、初めて会う人たちとお茶をする機会があった。皆、それぞれの分野でユニークな取り組みをされている方々だ。この場で、夫婦別姓に関する話題が出た。参加者に、この問題に取り組まれている方がいらっしゃったのだ。
日本では現在、結婚をする時に、夫か妻か、どちらかが改姓する必要がある(多くの場合、女性だ)。
改姓する方は、役所の手続きなどで、自分の名前を登録し直す必要がある。これには、多大な手間がかかる。
また、専門職の方などは、自分の名前で築いてきた社会的信用が損なわれる恐れがある。
「旧姓を使えばいい」という考え方もあるが、現在の日本では、旧姓の使用が認められていない職場もまだ多いようだ。
このようなわけで、近年、夫婦別姓を法的に認めるよう求める裁判などが行われている。
自分の立場は?
自分は、(あくまで”基本的に”だが)自由な選択が許される社会の方が良いと考えている。だから、別姓か同性かを選べる権利があるのは大切だと思う。
ただ、正直なところ、夫婦別姓問題についてお伺いしながら、自分の中に、ある種の”戸惑い”を感じたのも事実だ。
というのは、自分は現在、日本人男性で20%を超える「生涯おひとり様」の道を歩む可能性が(残念ながら)それなりにある人間である。
自分は、夫婦別姓問題を論じる「土俵」にすら上がれていない。そんな自分が、下手に口を突っ込んでいい問題なのだろうか。
ましてや、「自分ごと」として考えるのは難しい。
自分が当事者になるか分からない問題
環境問題や政治問題などは、(少なくとも建て前的には)全ての人が関わるべき問題だ。
ただ、夫婦別姓問題を、それと同等に捉えていいのか、という迷いもある。
もちろん、これを「人権侵害」だと捉えて、「人間は自由であるべきだ」といった思想的な立場から、一定のコミットメントをすることはできる。
(J・P・サルトルが提唱した実存主義的な考え方である)
ただ、「人権侵害」に関しては、世の中には、他にも多くの問題がある。その多くある問題の中から、なぜこの問題に関わるのか。
また、自分が当事者(つまり結婚する)になるのだとしたら、夫婦別姓問題は、真摯に向き合わなければならない問題となる。
ただ、同じように「自分が当事者になる可能性がある問題」は、他にも無数にある。
そうした中で、現時点において、夫婦別姓という特定の問題と、その関係者にどういう態度で向き合ったらいいのか。
関わり方の4つの考え方
もちろん、「それだったら、適当に聞き流せばいいじゃん」ということもできる。(実際、そうする場合も多い)
ただ、夫婦別姓とは別に、やはり自分も当事者意識を持っている問題がある。そうした問題を、他人から適当に聞き流されたら、やっぱり悲しい。
だから、「適当に聞き流す」以外の態度の取り様はないのか考えてみたのだが、その中で、以下の4つの考え方を思いついた。
①参考情報として聞く
たぶん、これが一番妥当な考え方だろう。
自分はこの問題の当事者にならないかもしれない。でも、当事者になる可能性もある。
だから、参考情報として聞いておくということだ。ただ、「お勉強」の域は出ない態度ではあるが。
②運命論・宿命論的な立場をとる
「今、この人と話していることには、何かの縁があってのこと」
「このタイミングでこんな話を聞いたということは、神さまが「この問題に取り組め」と言っているのかもしれない」
このような考え方をとると、一見、自分とつながりがないことにも、俄然として、取り組む理由が出て来る。
人間の人生など、しょせんはこうした運命論を採らなければ判断できないことが多い。なので、これはこれで、けっこうアリだと思う。
ただ、この考え方の問題は、「運命の仕事」は、あまりたくさんは選べないということだ。一人の人間のキャパは、そんなに大きくない。
③ビジネスチャンスとして捉える
社会課題あるところにニーズあり。ニーズあるところにビジネスチャンスあり。
ビジネスとは基本的に、他人が抱えているニーズ・課題にソリューションを提供することで、お金を稼ぐということである(ソーシャルビジネス寄りの考え方ではあるが)。
そして、「仕事として取り組んでいる」と言えば、プライベートでは関わりがない問題でも、「自分ごと」と捉えて不自然ではない(他人からの認知の上でも、自意識の上でも)。
「この中に、ビジネスの種はないか」と探しながら話を聞けば、それなりに自分もやる気が出そうだ。
「しょせんは金儲けの話か」
「相手に失礼だろう」
と非難されそうだが、ビジネスの「関係がなかったところに関係を作り出す」力は、肯定的な側面だと思う。
④ライフストーリーから共感ポイントを探る
社会問題という角度からだと、自分には関わりのないように思えることでも、「その人がどんな苦労をしてきたか」を聞くと、共感できることは多くあると思う。
種類は違えど、誰でもそれなりに苦労体験があるだろうからだ。
(特に子ども時代の話などは、そうではないかと思う)
ただ、これでできるのは、あくまで感情レベルでの共感だ。
社会問題には、関係者の複雑な利害関係が絡み合っている場合も多い。
そうした中で、感情レベルの共感だけでどこまで動いていいのか、という迷いは生じそうだ。
自分のスタンスの選び方
年を取るにつれて、他人との間に、「世界の断絶」のようなものを感じることが多くなってきた。他人がどうこうというより、自分が「冷たく」なり、共感できないことが増えているのだ。
というのは、自分には、色々なことに手を出す体力もキャパもない。「どうせ何もできないじゃん」と思うと、感情が冷めてしまうのである。
(逆に、「自分ごと」だと思えることに関しては、以前よりずっと強い感情を覚えるようになったが)
それで、こんなことを考えてみたわけだが、こうした問題に関しては、これ以外の考え方もあると思う。
今回は体力が尽きたので、ここで筆を置きたいが、また、今後の宿題だなあ、と感じている。
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