野菜のような文章を書きたい

2019年12月15日日曜日

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この約1ヶ月、ブログがまったく書けなかった。

単純に、仕事がとても忙しかったということがある。でも、それだけじゃない。

なんで自分がブログを書いているのか分からなくて、途方に暮れていたからだ。

誰のために書くのか?

このブログはおよそ2年半前に始めた。最初は、「自分ってそもそもどんな人間なの?」を考える、就活でいうところの「自己分析」のようなものだった。

ただ、ライター稼業という因果な商売をやっているせいもあるだろう。

人からコメントをもらったりするうちに、だんだんと、「この文章のターゲットは誰なのか」ということを意識するようになった。

(「誰がターゲットか」を考えるのは、ライターとして文章を書く際のイロハのイのようなものなので、職業病みたいなものかもしれない)


そうするうちに、

「いったい、オレは、誰に対して、何を書きたいんだろう」

ということが、だんだん、分からなくなってきてしまったのだ。


こんな一人言のようなものを、誰が見ますかねえ。

そんなカネにもならない文章書くのに時間を浪費してたら、オタク、世の中生きていけないよ。

もっとキャリアアップやスキル磨きにつながることに、時間を使うべきなんじゃないの?


そんな声が心のうちから響いてきて、いろんな記事を書きかけたけれど、すべて中途で止まってしまったのである。


自分のための言葉

「他人のために書かなくっていいんじゃない?」

香川でお世話になっている人に、先日、取材に行った際である。

取材をしていて、逆に、僕の人生相談になってしまう。それは、僕にはよくあるパターンなのだが、その時もそんな感じになり、お互いの人生について色々しゃべっていたのだが、

「最近、ブログ書けないんですよねえ。誰に対して何を書けばいいか、わかんなくなっちゃって」

そうつぶやいたところ、

「他人に対して、書かなくていいんじゃない?」 

テーブルから顔をあげると、彼はこちらをまっすぐ見ていた。ふっと空気が静まるような気がした。

「○○が、自分自身にとって今、一番必要な言葉を書けば。それで、読む人は読むし、伝わる人には伝わると思う。」


バズる文章や売れる文章じゃない、自分のための、自分自身に向けた言葉。

正月イベントの酒樽が、木槌で割られるように。彼の言葉を反芻しているうちに、ふと、自分の中で、なにかがパカンと割れる音がした。


生命の力がつまった言葉

この週末、埼玉の田舎に住む友人から、野菜をもらった。

先日、僕が住む地域の名産であるみかんを贈ったところ、「その御礼に」ということで、家庭農園でつくっている野菜を送ってきてくれたのだ。

大根、さつまいも、里芋に、白菜やほうれん草。ダンボールいっぱいの、新鮮な野菜たち。

ふだん、料理などほとんどしないので、「さてどうしよう」と迷ったのだが、とりあえず煮てみた。

ガスコンロでしばらくグツグツして、何もつけずにまずは一口。青々とした葉物をふくんでみた。すると、

「ジュワ~」

体の中にエネルギーが流れこんでくるような、自分の血液の1粒1粒に強い力がやどったような、そんな強いエネルギーを感じて、驚いた。。


土と水、太陽。そうしたものとともに生きてきた命のエネルギーがぎゅっと詰まっているようだった。

僕は、ふだんは食にはそれほど関心のない性格だ。ある程度おいしくて、リーズナブルで、健康的であれば、正直、なんでもいいという人間である。

だけれども、今回は、ひさびさに、深い感動を覚えた。


自分の文章も、そんなふうに在れればと思う。

新鮮な、生きた思いのぎゅっと詰まった文章。それを食べた人に、生命のエネルギーが、ぐっと流れ出すような。

そして、それは、何よりも自分自身が深く生きている場所から、生まれるもののような気がする。

そんなことを思いながら、野菜煮込みを味噌汁にして、たっぷり味わった休日の夜だった。

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