この約1ヶ月、ブログがまったく書けなかった。
単純に、仕事がとても忙しかったということがある。でも、それだけじゃない。
なんで自分がブログを書いているのか分からなくて、途方に暮れていたからだ。
誰のために書くのか?
このブログはおよそ2年半前に始めた。最初は、「自分ってそもそもどんな人間なの?」を考える、就活でいうところの「自己分析」のようなものだった。ただ、ライター稼業という因果な商売をやっているせいもあるだろう。
人からコメントをもらったりするうちに、だんだんと、「この文章のターゲットは誰なのか」ということを意識するようになった。
(「誰がターゲットか」を考えるのは、ライターとして文章を書く際のイロハのイのようなものなので、職業病みたいなものかもしれない)
そうするうちに、
「いったい、オレは、誰に対して、何を書きたいんだろう」
ということが、だんだん、分からなくなってきてしまったのだ。
こんな一人言のようなものを、誰が見ますかねえ。
そんなカネにもならない文章書くのに時間を浪費してたら、オタク、世の中生きていけないよ。
もっとキャリアアップやスキル磨きにつながることに、時間を使うべきなんじゃないの?
そんな声が心のうちから響いてきて、いろんな記事を書きかけたけれど、すべて中途で止まってしまったのである。
自分のための言葉
「他人のために書かなくっていいんじゃない?」香川でお世話になっている人に、先日、取材に行った際である。
取材をしていて、逆に、僕の人生相談になってしまう。それは、僕にはよくあるパターンなのだが、その時もそんな感じになり、お互いの人生について色々しゃべっていたのだが、
「最近、ブログ書けないんですよねえ。誰に対して何を書けばいいか、わかんなくなっちゃって」
そうつぶやいたところ、
「他人に対して、書かなくていいんじゃない?」
テーブルから顔をあげると、彼はこちらをまっすぐ見ていた。ふっと空気が静まるような気がした。
「○○が、自分自身にとって今、一番必要な言葉を書けば。それで、読む人は読むし、伝わる人には伝わると思う。」
バズる文章や売れる文章じゃない、自分のための、自分自身に向けた言葉。
正月イベントの酒樽が、木槌で割られるように。彼の言葉を反芻しているうちに、ふと、自分の中で、なにかがパカンと割れる音がした。
生命の力がつまった言葉
この週末、埼玉の田舎に住む友人から、野菜をもらった。先日、僕が住む地域の名産であるみかんを贈ったところ、「その御礼に」ということで、家庭農園でつくっている野菜を送ってきてくれたのだ。
大根、さつまいも、里芋に、白菜やほうれん草。ダンボールいっぱいの、新鮮な野菜たち。
ふだん、料理などほとんどしないので、「さてどうしよう」と迷ったのだが、とりあえず煮てみた。
ガスコンロでしばらくグツグツして、何もつけずにまずは一口。青々とした葉物をふくんでみた。すると、
「ジュワ~」
体の中にエネルギーが流れこんでくるような、自分の血液の1粒1粒に強い力がやどったような、そんな強いエネルギーを感じて、驚いた。。
土と水、太陽。そうしたものとともに生きてきた命のエネルギーがぎゅっと詰まっているようだった。
僕は、ふだんは食にはそれほど関心のない性格だ。ある程度おいしくて、リーズナブルで、健康的であれば、正直、なんでもいいという人間である。
だけれども、今回は、ひさびさに、深い感動を覚えた。
自分の文章も、そんなふうに在れればと思う。
新鮮な、生きた思いのぎゅっと詰まった文章。それを食べた人に、生命のエネルギーが、ぐっと流れ出すような。
そして、それは、何よりも自分自身が深く生きている場所から、生まれるもののような気がする。
そんなことを思いながら、野菜煮込みを味噌汁にして、たっぷり味わった休日の夜だった。
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