この世界が在ることへの感動

2019年11月10日日曜日

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最近、写真を撮るのが好きになった。

職業柄、以前から写真を撮る機会は多かった。仕事で必要なので、「インスタ映えするショットを狙うぞ!」という意識もあった。

ただ、正直に言うと、それは義務感に近いものだったので、心から「楽しい」と思ったことはなかった。

それが変わったのは、最近知り合った、ある米国人の影響だ。

光に対する感性



彼はライターで、現在、あるプロジェクトに一緒に取り組んでいる。

先日、一緒に取材に行った時のことだ。

「カメラなに使ってるん?」といったお喋りの流れで、撮影時に意識していること、といった話題になった。

その際、こんな彼の言葉が、心に波音を立てた。

「カメラを始めたばかりの人には、『最初の1ヶ月は、光だけに集中して撮ってみるといいよ』と奨めているんだ」

「写真は、光と影のアートだから」


実際、一緒にいる中で、彼が空を見上げて、

「ああ、とてもいい光だね」「この光は優しいね」

そうつぶやく場面が、何度かあった。


もちろん、こちらも写真を撮る時、光には注意を払っていた。ただ、それは、あくまで、「インスタ映えする写真」を撮るためだった。

それに対して、彼は、この世界に光があることそのものに感動している。

「カメラって、世界への感動を表すための手段だったんだなあ」

彼の姿は、そんな気づきを与えてくれた。


感動というのは、時に伝染する力を持っている。少し遠い目になった彼を見ながら、僕もうっとりした気分になった。

(こういう感動の伝染こそ、人が同じ時を過ごす意義の1つだと思う)


タルコフスキーと世界の美しさ


彼とは、アンドレイ・タルコフスキーの話もした。

タルコフスキーは、ロシアの映画監督。揺れる水、光、といった世界の移ろいを、美しく描き出した芸術家だ。

大学に入りたての18歳の時、ロシア語の先生に薦められて、彼の『惑星ソラリス』という作品を観た。

この中に、突然降り出した雨で、コップの中の紅茶が揺れるシーンが出て来る。

ここでは、ストーリーの流れとは関係がないのに、水面が揺れる様子がわざわざアップされるのである。

その、一見ムダな場面に、タルコフスキーがこの世界に抱いている感動がにじみ出ているようで、心が震えた。


ただ、社会人になって、心が擦り切れそうな日が続くごとに、こんな(営業成績に全くつながらないように思える)映画など、完全に忘れていた。

それを、米国人ライターの彼が、思い出させてくれたのだ。


「人はパンのみにて生きるにあらず」


朝を告げる窓辺の光。

木々の下で踊る光と影。

夕暮れの、空の紅さ。

なにげない日常の中に、美しいものが溢れている。


米国の学者、ジョゼフ・キャンベルの『神話の力』という本に、ピグミーに伝わるこんな神話が紹介されている。

ある少年が森で、美しい声で歌う鳥を捕まえてきた。しかし、彼の父は、「鳥なんかに食べ物をやれるか」といって、鳥を殺してしまう。

しかし、鳥を殺した時、父も倒れて死んでしまった。


世界の美しさや感動には、目に見える経済効果があるわけではない。

でも、「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の格言は、世界の最も深い神秘の1つかもしれない、という気がする。


瀬戸内国際芸術祭の「伊吹の樹」



今回の瀬戸内国際芸術祭で制作されたアートの中に、観音寺市・伊吹島の「伊吹の樹」という作品がある。

「伊吹の樹」は、もともと島の女性たちが出産に使っていた場所を活用して作られた、樹の形のオブジェだ。

この中は、鏡張りのトンネルとなっているのだが、これは、人が生まれる時に通る産道のシンボルなのだという。



これを覗いたときのことだ。

トンネルの向こうに、美しい青空が広がっていた。そして、鏡が、幾重にも空を映し出していた。

万華鏡のような光を目にしながら、こんなことを思った。

「人が産まれてくるとき、最初に目にするのは、こんな光なのかもしれない」



最近、埼玉県に住む友人に子どもが産まれた。

多くの困難と闘いながらの出産で、現在も、彼女は難しい状況の渦中にいる。


でも、「伊吹の樹」を思い出しながら、こんなことを祈った。

彼女と、新しくこの世界にやってきた命に、光がありますように。

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