「自分の感受性くらい、自分で守れ」

2019年11月2日土曜日

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アートを観るとき、自分の内に、葛藤が起こることがある。



最近、ときどき、瀬戸内国際芸術祭で会場の受付をしている。

スタッフとして働いていると、自分自身がアートとじっくり向き合う時間はなかなか取れないものだ。

ただ、先日はお客さんが少なめだったので、少し休憩して、ようやっとアートを観ることができた。


遠目から見ると、アートは「ヘンテコに色付けされた塊」にしか見えない。

でも、目を凝らしているうち、だんだん、その世界観に引き込まれていく。

うねる色、刷毛のかすれ・・・。細部に秘められたエネルギーが、自分の中で波しぶきを立て始める。

この絵を描いていたときにアーティストが感じていただろう、言葉にならない衝動が、自分の内にトレースされてくる。

この異世界に入り込むような感覚が、自分にとって、アートを見る喜びだ。



だが、そうした状態になる前に、

「そんなことしていて本当にいいの?」

という、心の中のもう1つの声と闘わなければならないことが多い。


これは、

「仕事で、あれもこれもできてないのに、呑気にアートなんて見てる暇あるのか?」

「早く戻って、少しでも仕事しないと、大変なことになっちゃうかもしれないぜ」

そうした類いのものだ。


しばらくすると、そうした声はだんだん小さくなっていく。

でも、今回は、そうした状態になるまでに随分と時間がかかった。


他人の求めに応じることが優先?




これはアートに限った話ではない。

最近、絶景を見ていても、「あー、次にあれをやらなきゃ」という思いが頭をよぎって、目の前の景色に集中できなくなることが多い。

そして、人生に感動する機会は、だんだんと減っている気がする。


こういう心象が、どうして生まれるのか。

年齢的な要因もあるだろう(20代より、自分のキャリアや責任を意識する機会が増えている)。また、自分の生まれ持った性格もあるだろう。

だが、それらと並んで考えられるのが、

自分の気持ちより、他人への義務を果たす・他人の求めに応じる方が、優先度が高い

という無意識の価値観ではないかと思う。


こういう価値観を無意識のうちに抱え込んでいる人は、日本社会(ほかの国も)には一定数いると思う。

なぜ、このような価値観が無意識のうちに生まれるか。そこには、さまざまな側面があると思う。


「他人ががんばっている中で、自分が働いていないのは、悪いことだ」。多くの日本のコミュニティには、そうした空気感が、今でも残っている。そうした文化的・社会的背景もあるだろう。

「心を豊かにする」みたいなことよりも、「他人のニーズに応える」ほうが、よりはっきり形のある成果が生まれる(金銭的な報酬など)。そうした側面もあるだろう。

あるいは、「自分は職場で、十分な成果を出せていないのでは」という不安があるかもしれない。「十分な成果が出せてない自分が、休んでいたりしたら、自分の居場所がなくなってしまうのではないか」というわけだ。


だが、こういうことの繰り返しが、自分の人生を味気ないものに変えているような気がする。


「自分らしさ」に前のめりで

もちろん、他人の要求に応えることは、大切なことだ。

生活に必要なお金を稼ぐためだけではない。「誰かの役に立っている」という意識は、生きる力になるからだ。

ただ、僕が思うのは、「他人の役に立つ」と「自分らしく生きる」を比べたら、後者のほうが、優先順位が高くあってほしいということだ。



個人的には、「誰もが、自分の命を全うできる社会」が究極の理想社会ではないかと思う。

他の生き物を食べねば生きていけない世界の中では、みんな仲良しで完全調和・・・という形は、どこまでいってもありえないだろう。

でも、与えられた運命に対して、自分らしい生き方をして死んでいけたら。それは、この宇宙で、自分の存在を全うしたということになるではないか。

死すべき定めの存在として、最終的に目指すのは、そうしたことではないか。


うまく表現できないのだけど、そんなことを踏まえると、自分としては「自分らしく生きる」方が、まず第一にあるべきではないかと思うのだ。


と思いつつ、やっぱり、「他人のニーズ」にばかり意識を支配されるのを、うまくコントロールできない自分がいる。


勇気を持つこと

これは、社会の問題であると同時に、個人の「勇気」の問題でもあると思う。

「他人の求めに応じて生きる」ことには、本質的に「惰性で物事をやる」側面がつきまとう。

そこから具体的な行動を起こして抜け出すのは、不安なことだ。

でも、自分が思い浮かべる何人かの生き生きとしている人は、リスクを取って、自分の道を歩んでいる人もいた。

そうした人たちに比べて、自分は十分な勇気を持って生きてきただろうか。

そんな疑問が浮かぶのである。



昔読んだ詩が、心に蘇る。今なら少し、彼女が言いたかったことが、理解できるかもしれない。



自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


              (茨木のり子、詩集「自分の感受性ぐらい」、1977)



心というのは、筋肉みたいなものだと思う。

普段から、さまざまなものを意識的に感じようとすると、感受性が磨かれていく。

でも、惰性に流されて生きていると、どんどん鈍くなっていく。


自分の人生を味気ないものにするか、心豊かなものにするか。

問われているのは、何なのか。考え続けたい。

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