【ヨガ男子の香川日記】「田舎には何もない」というけれど・・・

2019年4月14日日曜日

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新緑の山


「住めば都」というけれど

香川県西部に引っ越してから、約3週間が過ぎました。

こちらでの生活にも、だんだん慣れを感じてきているところです。

日本には、「住めば都」ということわざがあります。

ある程度の生活インフラがそろっていれば、人間、たいていの場所に慣れるもんじゃないかと思います。

(まあ、学校でイジメにあったり、職場でパワハラにあったりといった事情があれば、話は違いますが)

前の川崎の生活は、それなりに好きでした。

で、香川での生活も、予想以上に便利で快適です。

(近くに100均もスーパーもあるし、5キロ圏内にショッピングモールもある。生活に必要なものの多くは近所でそろってしまう)


ただ、香川に来て、「やっぱり違うなあ」と感じることも多くあります。

車をよく使うことだったり、カフェまでの距離が遠かったり、近くに海の絶景があったり。

プラスもマイナスも、あるいはどちらとも評価し難いこともある。

それらについて、どう考えるのか。


「人が住みたいと思える土地は、どんな土地なんだろう」


そんなことに興味があるので、まとまりがないのですが、考察を続けようと思います。

空が広く見える場所

香川に限った話ではないのですが、東京や大阪といった大都市圏を離れると、「空が広い」と感じます。

都会にいると、広告やネオンサイン、ビルといった人工物に視界がほぼ埋め尽くされます。

でも、都会を離れると、山や川といった自然が増える一方で、高い建物も、広告の量も少なくなる。


僕は都市部を離れると、ある種の「リラックス」や「解放感」を覚えることが多くあります。

それは、この人工物の多寡が関わっている気がします。


「〜を買うべきだ!」といったPRをする広告はもちろんですが、人工物というのは基本的に、人の意志が介在しています。

これはつまり、人工物は、ある種の「対人関係のプレッシャー」のようなものを纏っているのかもしれない。

そんな気がするのです。


もっとも、これは逆にいうと、人工物が「人の温かみ」を纏っているという側面もあると思います。


人工物がどのくらいある方が心地よいかは、最終的には、個人の好みの問題だと思います。

ただ、住む場所について考える上で、この視点は、ちょっとしたヒントになりそうな気がします。

ちなみに、人工物と自然。どちらも、脳は「情報」として処理しているはずです。

以前、ネイティブアメリカンのもとでサバイバル技術の修行をした人と話したことがあります。

彼は、「薪になりそうな木がどこにあるか」といった、自然の情報を見抜く方法について話してくれました。

こうした人の場合、自然から得られる情報量は、人工物よりむしろ多いかもしれません。

ただ、たいていの現代人は、人工物の方が「情報量が多い」と感じると思います。なぜなら、現代では、人工物の方が経済活動と直接的に結び付いているからです。

田舎は何もない?

家の近くの夕焼け

「田舎はどこにいっても、何もない」

そんな言葉もよく聞きます。

「何もない」と言う時、僕たちはいったい”なにが”無いと言っているのか。

これは多分、上述した人工物の多寡なのだと思います。


ただ、香川県に来て気づいたのですが、この地域の山の色は、関東と比べて明るくカラフルです。

杉といった針葉樹が多い関東に比べ、明るい照葉樹が多いためじゃないか、と推察しています。

(自分は植物に詳しくないので、正確なところは分かりませんが)

こうした山を見ていると、個人的には、なんだかワクワクします。

「何もない」と言っても、自然にはバラエティがある。この点を、どう評価するのか。

それも、住む場所を考える上でのヒントになりそうな気がします。


おまけ:3大メガバンクのATM・支店がない!

東京だと、だいたいどの地域にも、三菱東京UFJ銀行と三井住友銀行、みずほ銀行のATM・支店があります。

なので、てっきり「日本中、どこでもあるはず」と思い込んでいました。

でも、自分の住んでいる地域の近くには、これら「3大メガバンク」の支店・ATMは1件もありません。

(代わりに、百十四銀行の支店・ATMが多くあります)

今日、高松に行った際に三菱東京UFJと三井住友の通帳記入をしたのですが、その時ふと、

「3大メガバンクも、東京という地域に根ざした”ローカル銀行”なんじゃないか」

そんな気がしました。



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