弱さを受け容れる社会に関する考察:上野千鶴子氏の東大での祝辞に寄せて

2019年4月13日土曜日

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東大の駒場キャンパスは渋谷近くにあります(東大の写真持ってないので、渋谷の写真を入れました><)


ジェンダー研究の草分け・上野千鶴子氏の講演

Facebookを見ていたら、多くの友人たちがシェアしていたので知った。

社会学者の上野千鶴子氏が4月12日、東京大学で新入生に向けて、このような講演をしたという。


平成31年度 東京大学学部入学式 祝辞
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html


上野千鶴子氏は、日本のジェンダー研究の草分けとして有名だ。

僕も、『おひとりさまの老後』といった著書や、インタビューなどを読んだことがある。

今回の講演では、東京医大で最近発覚した、入学試験における女性差別を皮切りに、様々な不正・差別に触れ、社会を生きるための倫理や、知を身に付ける意味について説いている。

「弱さを受け容れる社会」に関する考察

僕が特に共感したのは、以下の部分だ。


「そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」

「女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。」

「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」


あくまで個人的な見解だが、僕は「男らしさ」が全部が全部、否定されるべきだとは思っていない。

というのは、伝統的に「男気(おとこぎ)」という言葉で表されてきた気質の中には、

「たとえ自分に不利であっても、弱者を助けようとする気概」

「皆がやりたがらないけれど、誰かがやらなければいけないことを、あえて引き受ける責任感」

といった美徳が含まれているからだ。

男女を問わず、こうした気概を持っている人が一定数いなければ、社会は成り立たないだろう。

(「男気」という言葉自体は、ジェンダーバイアスがある表現だと思う。また、「男気」を持っている人に過度な負担がかかってしまう社会システムの在り方も問題だと思うという留保を付けた上でだが)

その一方で、人間は「強さ」だけでは生きられないとも思う。

「強さ」「弱さ」とは、現代社会では「他人への依存度合い」で測られることが多い。

つまり、経済的に自立していて、他人からの支援が少ない人間の方が「強く」、反対に他人からの支援なしでは生きられない状態が「弱い」ということだ。

(先に挙げた「男気」のような精神的な強さとは少し角度が異なるけれど、ある部分でこうした物質的な要素と精神的な強さが結びついている側面もあると思う)


健康で、仕事をしてお金を稼げている「強い」状態であれば、他人の助けなど必要ないかもしれない。

でも、不慮の事故で障害を負ってしまったら、他人の介助なしに生活はできなくなる。

地震や津波といった災害で家財を失ったら? やはり他人(政府・自治体含め)からの援助に度合いは高まるだろう。

こうした大きな問題でなくても、多くの人は、人生の中で不安になったり、心弱りしたりする時があるものだと思う。

特に、大きな責任を抱えている人ほど、誰かに泣きついたり、弱音をこぼしたりと「安心して弱くなれる場所」が必要なのではないかかと思う。


ジェンダー研究は奥が深いので、正直なところ、まったくの不勉強なのだが、ただ、

「男は弱音を吐いてはならない」

といった、人間を不必要に苦しめる価値観を相対化する上で、大きく貢献してきたのは間違いないと考えている。

強くならなければいけない時

人間には「強くならなければならない時」もある。

これは、「男らしさ」「女らしさ」といった価値観の問題ではない。

「与えられた責任から逃げない勇気」

こういったものは、社会で生きている限り、必要な場面があるからだ。

また、「弱くてもいい」と思ってしまうと、人間は努力しなくなるのではないか、という性悪説的な考え方もある。

その一方で、「強さ」だけでは人間は生きられないと思う。


人間が生きるために必要な強さと、弱さ。

その両方の、しかるべき形とは何なのか。


まとまりがない内容で恐縮ですが、上野千鶴子氏の講演に刺激を受けたので、今後の考察の材料として雑文を綴りました。





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