「みんなちがって、みんないい」と宿命論

2018年12月16日日曜日

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弱者のなぐさめ?「みんなちがって、みんないい」

「みんなちがって、みんないい」

大正時代の詩人、金子みすゞに、このような有名な詩句がある。

金子みすゞを初めて読んだのは高校生の時。早熟なクラスメートに薦められてのことだった。

だが、当時は、この詩の意味がよく分からなかった。

「いい」って、一体、なにが良いのか。誰にとって良いというのか。

「しょせんは、弱者のなぐさめじゃないの?」

社会人になって働き始めた後は、むしろこのようなに反発すら感じた。

しかし最近、「宿命論」に照らしてこのことについて考えてみて、なんとなく、ある種の納得感を得られたように感じている。

先日ブログで書いた、宿命論に関する考察の続きです。

宿命論と運命論


社会における評価の基準

世の中には、時代ごとに支配的な評価の基準がある。

日本の戦国時代や、ナポレオンが活躍していた時代の欧州では、「いかにうまく暴力(戦力)を活用できるか」が、優れた人間の証だっただろう。

現代の場合、それは「お金を稼ぐ力」だと思う。

ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグのように巨万な富を築き上げたIT長者たちだけではない。

小さな組織でも、金を稼げる人間・組織を富ませることができる人間が、一般的に高く評価される。

この「支配的な評価の基準」に即した場合、世の中には、相対的に生きやすい人と、生きづらい人がいると思う。

例えば自分の場合、今も昔も、あまり営業向きな性格ではないと思う。

体力がなく、疲れてくるとすぐに頭痛が起こる。気も小さい。

僕は新卒で入った会社で営業になったが、営業目標をクリアできたためしはなかった。

毎日のように怒られ続ける中で、自己肯定感がすり減っていくのを感じていた。

なんとかこの状況を打開しようと、脳トレーニングなどに手を出した結果、頭痛がよけいにひどくなった。

当時、アナグマのように布団に潜りながら、

「金を稼げる人間だけが、生きる価値があるんだ」

と思っていたものだ。


さまざまな人のバランス


正直なところ、当時はだいぶ精神的に病んでいたと思う。

ただ、それから転職をして、健康状態もマシになってくる中で、もう少し、冷静に物事を見られる様になってきた。

その中で気づいたのは、

「どれほど優れた人間でも、一人の人間ができることには限りがある」

ということだ。

例えば、メディアなどによく取り上げられる有名な経営者がいる。

こうした人は、インタビューだけ読むと、いかにもスーパーマンのように見える。

ただ、内実を知っている人に聞くと、社内では「他人の話を聞かない人」「経営がどんぶり勘定」だったりする。

そして、そうした細かい部分をすくって、うまく補佐している人がいたりするものだ。

社長ではなくても、営業成績がすごいけど、人あたりが強くて、周りにストレスを抱えさせやすい人もいる。

営業成績はすごいわけではないけれど、チームの和を保つ上で、大切な役割を果たしている人もいる。

優しい人と厳しい人。細かいことにこだわる人と大雑把な人。勤勉な人と怠け者。

組織が持続するというのは、そうした様々な人のバランスがあってこそなのだ。

ということも、なんとなく分かってきた。

獣医になれないやさしい人ができること


これは組織だけではなく、社会全体にも言えるのではないかと思う。

荒川弘さんのマンガ『銀の匙』に、獣医を目指しているのに血が苦手、という男の子が登場する。

彼を思い浮かべながら、主人公がある獣医に、「獣医になるのに必要なものはなにか」と尋ねるシーンがある。

獣医は、「(家畜を)殺れるかどうか」と、ズバリ答える。

しかし、彼はまた、続けてこのように言う。


「だからと言って、獣医になるのをあきらめた人がダメって事は無い。」

「世の中にはそういう「殺せない」「殺させたくない」ってやさしい人達が頑張っているから、助かっている命がたくさんあるんだ」

(『銀の匙』1巻)


獣医のおかげで、畜産業で生計を立て、暮らしていける人がいる。

同時に、動物の命を奪えず獣医になれないようなやさしい人がいるから、助かる命もある。

どちらが良いというわけではなく、おそらく、どちらも世の中には必要なのだ。

(逆に言うと、優しい人だけでもダメだろう。会社も、チームの仲良しごっこだけで金を稼げなければ、当然立ち行かない)

自分の仕事


生まれながらどんな性格や才能を持っているか。つまり「宿命」は、人それぞれだ。

しかし、社会は、「支配的な評価の基準」にもとづいて、「こうあってほしい」人の理想像を作り出す。

それに近づけるように、努力するように促す。

ただ、この世界は様々な人のバランスから成り立っていると考えると、本質的には、どの宿命も真摯に生きられる限り、価値は異ならないのではないかと思う。

たぶん、僕も、人生をかけて取り組むべきなのは、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグの「第二号」になることではなくて、自分に与えられた宿命をただ生き切ることなんだろう。


もっとも、苦手だろうとなんだろうと、生きていくために金を稼がなくてはならない。

だから、「自分の宿命を生き切る」というのは、口で言うほど簡単ではないし、もっと具体的に考える必要がある。

そんなことで、まだこれからも、考察を続けたいと思います。



なお、最後に、冒頭に引用した金子みすゞの詩を。


わたしと小鳥とすずと

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。


















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