ノーベル文学賞は未知の世界への扉
先週、2018年のノーベル賞受賞者の発表が相次いだ。ノーベル医学生理学賞に京都大学の本庶佑・特別教授が選ばれたことで、日本のメディアも湧いた。
個人的にも毎年、ノーベル賞には楽しみにしている。
2017年の物理学賞に選ばれた「重力波」といった興味深い研究に触れたり、平和賞を通じて草の根で活躍する偉人の存在を知ったりする機会になるからだ。
ただ、今年残念だったのは、文学賞の発表が見送りになったことだ。
選考委員であるスウェーデンアカデミーの関係者の性的暴行疑惑により、このような事態に至った。
文学賞は、ジェンダー平等や自由、民主主義といった価値観と深く関連している。
それゆえ、選考組織のこういった問題への対処は、科学分野の賞以上に重要だろう。
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ただ、仮に「ノーベル文学賞がある世界とない世界。どっちがいいか」と尋ねられたら、どうか。
自分はやっぱり、ある方がいいと思う。
ノーベル文学賞は自分にとって、未知の世界を開いてくれる扉だからだ。
暴力が吹き荒れる世界において自由な生き方を追求する『マイケル・K』を書いたジョン・マクスウェル・クッツェー(南アフリカ共和国)。
人間個人の精神世界の深みを中国の伝統文化に即して描いた『霊山』の高行健(フランス亡命の中国人)。
そのほか、中国の莫言やトルコのオルハン・パムクといった作家たち。
ノーベル文学賞は、こうした作家が日本で広く紹介されるきっかけを作った。
そのおかげで自分が精神的に得たものは少なくないと感じている。
だから、現在の状態はどうあれ、ノーベル文学賞関係者のこれまでの活動には、少なからず感謝しているのである。
ナチスの収容所体験を描く『運命ではなく』
ノーベル文学賞の受賞者の中には、賞を取らなければ日本で知られることはほぼ100%なかっただろう、あまり有名でない作家もいる。そうした作家の小説の中で、個人的に特に深い感銘を受けた作品を、ここで紹介したい。
2002年に受賞したハンガリーの作家、ケルテース・イムレ。日本では、『運命ではなく』という代表作一つのみが翻訳されている(自分もこの1冊しか読んだことがない)。
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人の人生は、運命によって決まっているのか、あるいは自由なのか。
この世界は根源的に不平等で思い通りにならない部分が多い。その点をどのように考え、向き合えばいいのか。
その際に、自分の思考は「運命」という言葉の周りを行き来する。
何のきっかけで知ったか忘れてしまったが、『運命ではなく』も、そのタイトルに心惹かれて、3〜4年ほど前に手に取ったのだった。
(すでに絶版なので、Amazonで取り寄せた)
ケルテース・イムレは1929年ハンガリー生まれのユダヤ人。第二次世界大戦中、ドイツの強制収容所に入れられた経験を持っている。
『運命ではなく』は、その経験を基に書かれ、1975年に発表された自伝小説だ。
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アウシュビッツ強制収容所における大量虐殺をはじめ、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害に関しては、多くの考察と文献が出ている。
そうした文献を、自分は必ずしも多く読んでいるわけではない。
ただ、ナチスの話を含め、歴史的な事象というのは、資料などを基に実際に何があったのかを探究していく「振り返り」のスタイルで考察せざるを得ないと思う。
それに対して、『運命ではなく』という小説が試みているのは、収容所で「まさにその時」感じたことを、再現しようとしていることだ。
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この小説は、ブダペストで父が労働キャンプ(ナチスの強制収容所の一種)に行くことを知らされるシーンから始まる。
そして、じきにまだ14歳の主人公も、さまざまな事情からドイツの収容所に行くことになる。
それから数日間アウシュヴィッツで過ごした後、別の収容所に移っていく、といった形で物語が展開していく。
こうした過程において、具体的にどんな人と会い、どのように関わったか。
どのような作業をして、体がどのように反応したか。
そうした経験を、大きな感情的な起伏なく、しかし克明に描いていく。
印象的なのは、将来を予想して絶望する大人たちも多い中、主人公は「今ここで、自分と自分を取り巻く状況がどのようなものなのか」を観察しようとしていることだ。
この小説には、ナチスの行った行為を非難する言葉はほとんど出てこない。
ただ、ひたすら、自分の身体と自分の目の前に起きている事象に対する、冷静かつ克明な観察が続くのである。
個人として考える
ケルテース・イムレは、なぜそのような書き方を採ったのか。「人間が社会的圧力にますます服従している時代にあって、個人として生き、考え続ける可能性を追求した」。
これは、ケルテース・イムレにノーベル文学賞を授与する際に、スウェーデン・アカデミーが出した受賞理由だ。
この中に、彼がこうした書き方をした理由があるのではないかと思う。
社会に大きな不正があり、大きな災厄がある。ユダヤ人全体の受難。日本でも、直面している少子高齢化をはじめとした、いわゆる「社会問題」がある。
これらに関して考えるのは、当然、大切なことだ。自分たちの生活に直接関わるのだから。
ただ、個人の人生には、「社会問題」とか、マスの統計データの枠ではくくりきれない領域が常にある。
そして、この微妙な距離の中にこそ、人が希望と思ったりするもののカギが潜んでいる。
個人が体験し、感じたことを克明に記すことで、『運命ではなく』が示したかったのはこの点ではないか。そんな気がするのである。
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主人公は、戦後に戻ってきたブダペストの街中で、たまたま出会った新聞記者に「収容所の地獄について教えてくれ」と問われる。
新聞記者が求めるのは、いかにも”大衆受け”しそうな、悲惨な話だった。
それに対して、主人公は、「僕は地獄なんて知らないから、そんなことについてはまったく何も言えない」と答える。
さらに、「地獄は退屈なんてできないところだと思うけど、強制収容所では退屈できたんです。あのアウシュヴィッツでさえ。あるの条件のもとにですけど」と語る。
期待通りの回答が得られなかった新聞記者は、失望して去っていく。
その後、主人公は母親のもとへ向かう途中、このように述懐する。
「だって、まだあそこ(強制収容所)にいた時ですら、煙突のそばにだって、苦悩と苦悩の間には、幸福に似た何かがあったのだから。僕にとっては思い出として、たぶんその体験がいちばん深く残ったものなのに、誰もが嫌な出来事や<恐ろしいこと>しか訊ねてくれない。そうだ、いずれ次の機会に誰かに質問されたら、そのこと、強制収容所における幸せについて、話す必要がある」
(『運命ではなく』 P277〜278)
この小説では、看守に暴力を振るわれたり、水を飲めず苦しんだりと、読んでいて辛くなる描写も多く出てくる。
その一方で、お腹が満たされた時や、乾いた喉に水が流れ込んできたときの喜び。他の囚人と楽しく働いたときの楽しさ。
そうした経験も、イーブンに描かれている。そして、主人公が収容所を出た後で思い出すのも、そうした経験なのだ。
辛さや苦しみ、強い不安の最中にふっと訪れる、息継ぎのような時間。
普通、それはすぐ忘れ去られるささやかな経験だ。
でも、あえてそこを光に照らしてみると、それが生きるよすがの一つになる。
この小説は、大げさな思想的な言葉がほとんど出てこない。
そうした中、ケルテース・イムレが描きたかったのは、単純な言葉にまとめられない、このような人生の断面なのではないかと感じる。
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『運命ではなく』は、ここで書いたことでまとめられるほど単純な小説ではない。今後、読み返す中で、また新しい発見をしていくだろう。
ただ、この機会に、このような小説を出会うきっかけを作ってくれたノーベル文学賞に感謝しつつ、今後の改善を期待して、雑文を綴らせてもらった。
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