切ない死に顔が教えてくれたこと:鶏の屠殺体験(3)

2017年12月9日土曜日

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2017年11月26日に山梨で鶏の屠殺体験をさせてもらった時の記録です。

前回の記事はこちら:
肉を食べることに関する整理のつかない感情:鶏の屠殺体験(1)
生き物が食べ物に変わる瞬間:鶏の屠殺体験(2)

安らかだった祖父の死

「あなたが人生を賭けてなすべき仕事は何か」

この問いに対し、「社会に役立つ事業を行う」「身近にいる人を大切にする」といった答えを挙げる人が多いのではないかと思う。

僕自身は、今のところ、自信を持って表明できる答えはない。ただ、直観的に思い浮かぶことがある。

それは、「見事に死ぬ」ことだ。

数年前、母方の祖父が亡くなった。

僕は関東、祖父は関西と離れて暮らしていたため、正直なところ、僕はおじいちゃんとの接点はあまりなかった。

大阪で行われた祖父の葬式で、親戚から祖父の死因を聞いた。脳の麻痺(具体的な病名は忘れたが、脳梗塞のようなものだった思う)で、外出時に意識がなくなり、そのままほとんど苦しまずに亡くなったという。

これを聞いた時、心の片隅で「おじいちゃんが、最後のプレゼントをくれたのかもしれない」という気がした。


仏教では、人間が逃れられない苦しみとして、生老病死(四苦)を挙げている。

このうち、「死」の苦しみとは、死の前に味わう肉体的な苦しみと、死への恐怖(心の苦しみ)の両方があるのではないかと思う。

(トルストイの小説『イワン・イリイチの死』にも、死に直面して、この肉体と精神の両方で壮絶な苦しみを舐める中年男が登場する)

けれども、祖父の安らかな死は、「死は必ずしも恐れる必要はない」と、僕に対するささやかな励ましというか、メッセージのようなものだったような気がしたのだ。

(おじいちゃん自身は全くそんなことを思っておらず、僕が勝手にそう感じただけかもしれないが)


鶏から、死の覚悟を教えて頂く

今回、鶏の命を頂く体験をさせて頂いて、
「お前も死ぬ時は、こんな風に命の火が消えていくんだよ」
と、ある種の”覚悟”を与えて頂いたように感じた。

医療や畜産業などの職業に従事されている方を除くと、現代日本では、生命(人、動物の両方を含め)が死んでいく過程を身近に経験する機会は多くないと思う。

僕も、犬や猫を飼えない集合住宅でしか暮らしたことがないため、こうした人間の近い哺乳動物の死を身近で見た経験はほとんどない。

これまで、親族や友人・知人の葬式に行ったことも何度かあるが、彼らの死を知った時は、結局、いつも葬式などの知らせが来た時だった。葬式で、お焼香などをさせていただきながら、「死」というものが何なのかをうまくイメージできない自分がいた。


今回、このような形で鶏の「命を頂いて」みて、「生命の火が消えていく」様子を最初から最後まで見させて頂いた。

僕も、今回命を頂いた鶏のように、切ない顔をして、糞尿を漏らしながら死んでいくかもしれない。

ただ、鶏が死んでいく時の様子は、汚いというよりも、むしろ厳粛さと、ある種の美しさを讃えた姿に思えた。

鶏が死にゆく時の、静かな悲しみを讃えた眼尻を思い出していて、
「彼は、僕に大切なことを教えてくれる人生の「先生」だったのかもしれない」
という気がしてくる。

(この鶏は、僕を憎んでいると思うし、僕の勝手な思い込みかもしれないが)


僕がこの先、どんな形で死ぬかは分からない。

リンダ・グラットンのビジネス書『ライフ・シフト』にあるように、100歳まで生きて大往生するかもしれない。

戦争に巻き込まれて、暴力の中で悲惨な死を遂げるかもしれない。ホームレスになり、誰にも看取られないまま、死んでいくのかもしれない。

いずれにしても、多分、死に直面した時は、すごく苦しむと思う。

(北朝鮮の核ミサイルなどにより、自分が気づく間もなく蒸発してしまう場合は、話が別だろうが)

ただ、願わくば、自分も、祖父や鶏のように、「見事な死」を遂げ、この世界に残される人の苦しみや恐怖を取り除くお手伝いがほんの少し、できればと思うのだ。

それが他人に対して最後にできる、最も大きい「社会貢献」かもしれない気がする。


「命を頂く」体験のシェア

この鶏をさばくワークショップをした後、参加者は体験の感想のシェアした。

その際、講師を務めて下さった加藤大吾さんから、以下の3つの問を投げ掛けられた。

「今日、鶏を捌いて食べたことは、あなたにとってどんな意味があったか」
「日常生活の中で、『いのち』を感じる場面があるか」
「自分の生命を、これからどのように使いたいか」

この2番目の質問を考えた時、少し反省させられたことがある。

2年前、鶏と鹿を捌く体験をさせていただいた後、「食べ物を大切にしよう」という強い意識が生まれたが、それから2年後の今、そうした意識がだいぶ弱まっていたことを今回実感した。

「食べ物を大切にする」ということが、頭の中のイメージだけになっていた。

このような形でブログに書き残しておくのも、なるべく今回の経験を鮮明に保ちたいためだ。

また、「命を頂いて生きている」ことを忘れないために、今後もできれば一年に1度くらい、こうした体験をしたいと思った。(もしかしたら、僕も将来、ヴィーガンになるかもしれないが)


ほかの参加者からも、今回の体験に関して、さまざまな意見が出た。

「『命を大事にする』ということは、現代社会のキャッチフレーズとなっている『やりたいことをやる』『夢を追いかける』といったことと、本質的に異なるのではないか」

「『命を頂いて生きる』という、大人でも答えを出せていない問題に、自分の子ども参加させるのはためらわれる」(小さいお子さんをお持ちの男性の方の意見)

「『命を頂く』という経験を、あまり言語化しないほうがいいんじゃないか。今回のような体験話を学校の教科書に入れて、『だから命を大切にしましょうね』などと言っても、とても陳腐な気がする」

僕も、今回の経験に関して、答えを出すのが難しい問を多く受け取った気がするので、今後もそれに向き合っていきたい。

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