「何もしない」をする:岡山・新庄村のワークショップ「対話・マインドフルネス・自然」

2019年8月18日日曜日

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岡山県・新庄村でのワークショップ

8月17〜18日、岡山県の新庄村でワークショップ「対話・マインドフルネス・自然〜感情的知性を磨く〜」に参加した。

これは、新庄村が主催する、新たなワークスタイルを創造する試み「Local Work Design Lab」の一環で行われたサマーキャンプ・イベントである。



新庄村は、中国山地のただ中にある人口900人弱の村。藻谷浩介氏の著書『里山資本主義』で紹介されたことで有名な真庭市に隣接し、「日本で最も美しい村連合」をはじめとするユニークな取り組みを進めている。

今回のイベントは、ここの森に入りながら、「森」「他者」「自己」と対話するというものだ。

ファシリテーターは、(株)Project Design Office代表取締役の中村一浩氏。「対話」を軸にさまざまな活動をしている人で、「幸福学」の第一人者として有名な慶応大学の前野隆司教授の弟子筋の人でもある。


自分が参加したのは、今回のイベントで掲げられていた「何もしないことをする」というキャッチフレーズに心惹かれたからだ。

仕事が忙しいと、心の余裕を失いがちだ。心の余裕を失うと、「早くやらなきゃ」という強迫観念が強まり、ますます焦って疲弊するという悪循環に陥る。

こうした流れを変えるには、強制的に「何もしない」場所に行くのが一番だろう。そう感じたのだ。


スマホと時計を手放す


サマーキャンプでは、以下のようなことを行った。

17日の14時ごろに集合し、オリエンテーション後、森へ入って”ぼんやり”する。

(別に「ぼんやり」ではないのだが、実際にやったことは「ぼんやり」に近いので、とりあえずそう書いておく)

ここで重要なのは、「スマホと時計を手放す」ことだ。

現代人の生活は、時間に追われていることが多い。

また、スマホというのは中毒性のあるものだ。自分の投稿にどれだけ「いいね」がついたか、友人がどんな投稿をしているかといったことがついつい気になってしまう。

SNS以外にも、ソーシャルゲームや仕事の連絡、You tubeなど、脳を興奮させる要素は山ほどある。

この便利な中毒物を、個人の力だけで御するのは容易ではない。なので、他人の強制力が働いて、手放せる場というのは、ある意味ありがたいものである。

実際、時間も他人も忘れて、森の木漏れ日や沢のせせらぎの中で寝転がっていると、仕事やプライベートの悩み事が頭をよぎったが、それを繰り返すうちに、だんだんと心が落ち着いてきた。



森での時間を過ごした後は、参加者と感想をシェアリング。

それから、夕暮れていく空の下、焚き火を囲みながら、互いの人生の転機になったことなどを語り合った。

翌日午前中は、再び森に入って”ぼんやり”した後、改めてシェアリングをした。


対話:居心地の悪さの先にあるもの



今回の経験で印象に残ったことは多くあるけど、1点、書き残しておきたいことがある。

それは、今回のテーマの1つである「対話」に関してだ。


仕事上での会話は、通常、「簡潔に要点を伝える」ことに重きが置かれる。

また、相手の問いにはダイレクトに答えるようにするのが基本だ。

要点がよくわからない話をされたり、「売上はどうなっているの?」と尋ねたのに「今日はいい天気ですね」などと返答されたら、イライラするだろう。

ある程度、社会人生活を続けていると、こうしたことは習い性になってくると思う。



しかし、たき火を囲んでの対話の時のことだ。

2時間ほどの対話の途中、話が続かなくなる時が何度もあった。

いつもなら、自分は、そうした時は質問を無理にでもひねり出して、相手に話をうながすことが多い。

(自分は仕事でインタビューをすることもあるので、平均的な日本人に比べ、質問をひねり出すのは、それなりにできる方だと思う)


ただ、今回は、あえて、沈黙は沈黙のまま、「居心地の悪さ」を味わってみることにした。

「何もしないことをする」のが今回の目的だったし、森で気持ちが落ち着いたので、自分の「習い性」を、少し距離をとって見つめたいと感じたこともあるからだ。

しばらく、居心地の悪い沈黙が続いた。

しかし、そのうちに、他の参加者からさまざまなコメントが出てきて、「経営者が部下の話をどう聞けばよいのか」「夫婦、子どもとの関係性」といった話題に関して、予想してなかった話の展開になった。


ポンポンと調子よく続く会話は、いっけん、とても生産的で楽しく見える。

でも、そこで出て来る言葉が、必ずしも、その人たちの深い思いなのかは分からない。


言葉が心の奥から湧き上がってくるタイミングには、個人差がある。

沈黙の中で、気持ちが熟したり、言葉が生まれてくるのを、暴力を加えずに見守ることがあってよいのではないか。

それは、相手が生きていること自体の、リスペクトでもあるかもしれない。



あと、「対話は噛み合わなくてもいい」とも思った。

噛み合った、ロジカルな対話というのは、閉じた論理の輪を抜け出すことができない。

こうしたロジカルな話というのは、方向性が決まっている物事の細部を詰めていく際にはとても有効だ。

ただ、他者とどんな関係を築いていきたいか、自分がこれからどう生きていきたいのか、といった、もやもやしたものの中から形をつくっていくような場では、効力を発揮しづらい。

こうした場では、たとえ噛み合ってなくても、その時々に心に浮かんだことを投げ出していくような場がある方が、豊かな関係性が築けるように感じた。


もっとも、「噛み合わない対話」「その場にいる人の感性に任せた対話」というのは、ある種、”偶然性”にまかせた対話でもある。

偶然にまかせているので、どんな方向に転がるか分からない。

終わった後に、「面白くなかった」「生産的でなかった」と感じることもあると思う。

こういう負の側面について、どう考えるか。

前に、ある占い師に「すべての物事が最高のタイミングでやってくると信じることが大切だ」と言われたことがある。

偶然性にまかせた対話というのは、ある種、「たとえその時には非生産的に見えても、後になって、その方が良かったと思える日が来る」といった考えが必要な気もする。



対話のあり方。これは、今後も考え続けたいことの1つである。














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