小豆島にあるシャンヤンの「辿り着く向こう岸」 |
香港とあいちトリエンナーレ
相変わらず仕事で忙殺される日々が続いているが、日々のニュースを見ていて、心配なことがある。
1つは、香港で始まった大規模なストライキ。
逃亡犯条例への反対を巡って始まった今回の一連の動きだが、人口700万人の香港で、先般はデモ200万人、今回はストライキ35万人が参加しているという。
香港の人たちがどれほど危機感を持っているかが、ひしひしと伝わってくる。
香港は、訪日旅行客が特に多く、日本にとって身近な地域だ。僕も仕事柄、香港の人と会う機会はちょくちょくある。
日本で楽しげに過ごしている彼らの姿を思い出しながら、ニュースを見ていて心が苦しくなる。
大規模ストの香港、騒乱は広範囲に拡大
もう1つは、8月1日から始まった「あいちトリエンナーレ」における、「表現の不自由、その後」展の中止だ。
韓国の慰安婦問題を提起する「平和の少女像」を展示したところ、テロ予告や脅迫文・電話などが鳴りやまず、8月3日、津田大介・芸術監督とが中止を決定した。
「平和の少女像」の持つ政治性をどう考えるか、というのは難しい問題だろう。
ただ、このニュースを見た時、思い出したのは、2015年にフランスで起きた『シャルリ・エブド』紙の襲撃事件だ。
この時は、イスラム過激派のテロにより、10人以上が亡くなった。
政治に加え、暴力や脅しによって、言論の自由が抑圧される。そうした事情は、海外でも日本でも同じだと、改めて思ったのである。
僕がいる香川県も現在、同じくトリエンナーレである瀬戸内国際芸術祭を開催中だ。主催者側の方々に取材させていただく中で、こうした芸術祭を運営するのがどれだけ大変か、肌身で感じる機会も多い。
そこから、「あいち」の方も、関係者がどんな思いをしているか、なんとなく想像はつく。
僕も、今後も勉強を続けたいと思っているので、自らの備忘も兼ねて、参考になりそうな記事のいくつかをこちらにリンクさせていただければと思う。
【参照記事】
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」、地元で抱いた違和感と危機感
あいちトリエンナーレの話はどこが問題なのか
右派左派の不毛なイベントのつぶし合い
炎上すべくして大炎上「あいちトリエンナーレ」
ただ、これについて考えていて、思い出したことがある。
今年4月、瀬戸内国際芸術祭の関連で、小豆島でシャン・ヤンという中国人アーティストに取材させてもらった。
彼は子ども時代、母とともに船に乗って、文化大革命で行方不明となった父を探しにいったという過去がある。
そうした思い出を踏まえつつ、瀬戸芸では自由と救済を象徴する船、「辿り着く向こう岸」を制作している。
中国といえば、政府には検閲や政府批判者への処罰など、自由を抑圧するイメージが強い。また、旅行客などでも、残念ながら、「マナーが悪い」というイメージが強いように思う。
ただ、彼の作品を見た時、そうしたイメージの下にある、1人の人間としての息遣いを感じたような気がしたのである。
痛みも、悲しみも感じるし、弱さも優しさも持っているある、1人の人間。
(取材時は、アシスタントの方に英語で通訳してもらって、シャン・ヤン氏とも話をしたのだが、少し照れ臭そうな彼の様子に、親しみを感じたこともある)
そのことを思い出しながら、アーティストというのは、さまざまな偏見を打ち破って、「誰もが1人の人間だ」ということを伝えてくれる存在かもしれない、と思うのである。
表現の自由には、難しい側面が付きまとう。
でも、表現の自由があるからこそ、知ることができたもの。得られたものを、しっかり意識したいと思うのである。
1つは、香港で始まった大規模なストライキ。
逃亡犯条例への反対を巡って始まった今回の一連の動きだが、人口700万人の香港で、先般はデモ200万人、今回はストライキ35万人が参加しているという。
香港の人たちがどれほど危機感を持っているかが、ひしひしと伝わってくる。
香港は、訪日旅行客が特に多く、日本にとって身近な地域だ。僕も仕事柄、香港の人と会う機会はちょくちょくある。
日本で楽しげに過ごしている彼らの姿を思い出しながら、ニュースを見ていて心が苦しくなる。
大規模ストの香港、騒乱は広範囲に拡大
もう1つは、8月1日から始まった「あいちトリエンナーレ」における、「表現の不自由、その後」展の中止だ。
韓国の慰安婦問題を提起する「平和の少女像」を展示したところ、テロ予告や脅迫文・電話などが鳴りやまず、8月3日、津田大介・芸術監督とが中止を決定した。
「平和の少女像」の持つ政治性をどう考えるか、というのは難しい問題だろう。
ただ、このニュースを見た時、思い出したのは、2015年にフランスで起きた『シャルリ・エブド』紙の襲撃事件だ。
この時は、イスラム過激派のテロにより、10人以上が亡くなった。
政治に加え、暴力や脅しによって、言論の自由が抑圧される。そうした事情は、海外でも日本でも同じだと、改めて思ったのである。
僕がいる香川県も現在、同じくトリエンナーレである瀬戸内国際芸術祭を開催中だ。主催者側の方々に取材させていただく中で、こうした芸術祭を運営するのがどれだけ大変か、肌身で感じる機会も多い。
そこから、「あいち」の方も、関係者がどんな思いをしているか、なんとなく想像はつく。
表現の自由について
もちろん、「表現の自由」には、さまざまな問題がついてまわる。どこまでの自由が許されていいのか、というのは一筋縄ではいかない問題だ。僕も、今後も勉強を続けたいと思っているので、自らの備忘も兼ねて、参考になりそうな記事のいくつかをこちらにリンクさせていただければと思う。
【参照記事】
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」、地元で抱いた違和感と危機感
あいちトリエンナーレの話はどこが問題なのか
右派左派の不毛なイベントのつぶし合い
炎上すべくして大炎上「あいちトリエンナーレ」
ただ、これについて考えていて、思い出したことがある。
今年4月、瀬戸内国際芸術祭の関連で、小豆島でシャン・ヤンという中国人アーティストに取材させてもらった。
彼は子ども時代、母とともに船に乗って、文化大革命で行方不明となった父を探しにいったという過去がある。
そうした思い出を踏まえつつ、瀬戸芸では自由と救済を象徴する船、「辿り着く向こう岸」を制作している。
中国といえば、政府には検閲や政府批判者への処罰など、自由を抑圧するイメージが強い。また、旅行客などでも、残念ながら、「マナーが悪い」というイメージが強いように思う。
ただ、彼の作品を見た時、そうしたイメージの下にある、1人の人間としての息遣いを感じたような気がしたのである。
痛みも、悲しみも感じるし、弱さも優しさも持っているある、1人の人間。
(取材時は、アシスタントの方に英語で通訳してもらって、シャン・ヤン氏とも話をしたのだが、少し照れ臭そうな彼の様子に、親しみを感じたこともある)
そのことを思い出しながら、アーティストというのは、さまざまな偏見を打ち破って、「誰もが1人の人間だ」ということを伝えてくれる存在かもしれない、と思うのである。
表現の自由には、難しい側面が付きまとう。
でも、表現の自由があるからこそ、知ることができたもの。得られたものを、しっかり意識したいと思うのである。
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